「伝えるという事はすごく勇気のいること」カンボジア・スタディツアー高校生レポート:大隅菜摘子2

2014/04/11大隅菜摘子

2日目

ホテルにて朝食を取った後、プノンペン郊外にあるキリングフィールド、ポルポト政権下で大虐殺が行われた処刑場へ行ってきた。案内はプノンペン王立大学の学生さんがしてくれた。

まずここで「ポルポト政権」の歴史について簡単に説明する。ポルポト政権は「クメール・ルージュ」と呼ばれ、外交は反ベトナムで新中国の毛沢東思想に傾倒した共産主義集団であった。都市部から農村部へ国民を強制移住させ、農業による自給自足、宗教の禁止、貨幣経済の廃止、中国を除いた外国との国交も絶ち鎖国状態にあった。都市住民、旧支配階級、知識階級者は身分、財産をはく奪させ多くの罪なき人が虐殺された。知識層が虐殺されてしまったため農業インフラも機能しなくなったため深刻な食糧危機も招いた。餓死や病死も合わせるとおよそ3年半の間に300万人以上の死者が出たといわれている。

クメール・ルージュは次第に内部分裂をしていき、一部党幹部がベトナムに逃げベトナム軍を率いてプノンペンに侵攻し、クメール・ルージュはタイ国境へ追い込まれた。そして社会主義国家で親ベトナムのヘン・サムリン政権が誕生した。この新政権に対立してクメール・ルージュ、シハヌーク派、ソン・サン派は激しい内戦を繰り広げた。ベトナム軍も撤退し次第に和平モードが高まり、1991年にパリ和平協定が結ばれ約20年にわたる内戦が幕を閉じた…と、いう感じだ。

行ってきた、キリングフィールドとは処刑場だ。入るとすぐに1988年に建てられた慰霊塔が見える。そこには約9000人の骨が入っているそうだ。外から見るとガラスケースの中にものすごい数の骸骨が置いてあって、これがすべて人の骨だとは思えなかった。当時カンボジアにいた外国人も殺されたそうだ。

キリングフィールドには大きな穴が至る所にあいていた。それは殺された人たちが埋められた穴だそうで、88か所の穴を掘って約9000体の人骨が出てきたそうだ。その穴はまだすべてではなくまだほかにも約43か所残っているが湖の中にあり掘れないのだそうだ。人の骨がどの穴に入っているのか分からなくて探すのも大変だそうで、なかなか進まないようだった。

首都プノンペンから近いこの場所がキリングフィールドに選ばれた。知識を持つ人がどんどん殺されていった。眼鏡を掛けている(知識がある)手の平が柔らかい(富裕層)と言うだけで殺された。私はこの話を聴いた時あまりにも酷すぎて本当にあったことだとは思えなかった。

キリングフィールドのなかにはキリングツリーという木があって、幼い子供が兵士に足を持たれ打ちつけられて殺された木があった。カンボジアの気候も人の気質も温かくて私にはこの国で本当にこんなことがあったのか、と信じられなかった。母親から引き離されこの木に打ち付けられて亡くなっていった幼い子供たちの事を思うと本当に本当に心が苦しかった。

クメール・ルージュ時代の犠牲者300万人のうち2万人がキリングフィールドで殺されたそうだ。信じられなかった。殺している側の人間が人間だと思えなかった。なぜここまで人を殺したのか、何のために殺したのか。一人の命を奪う事でさえ恐ろしく非道なことなのに2万人といわれても想像がつかなかった。

午後はトゥールスレン刑務所博物館に訪問した。ここはクメール・ルージュ時代の政治犯が収容された場所だ。刑務所というよりも拷問をしていた場所なので拷問所と言ったほうがいいような気がする。もともとこの場所は小学校だった。

トゥールスレン刑務所は囚人を拷問するところで殺してはいけない、という決まりがあったそうだ。一般市民の囚人は外で拷問されていた。床の上で足かせをつけたまま拷問され知識人だ、とわかったらすぐにキリングフィールドへ連れて行かれ殺されたそうだ。拷問は爪をはがされたり、密室で拷問されたり、サソリを体に這わせられたり、腐った水の中に突っ込まれたりしたそうだ。

トゥールスレン刑務所には生き残った人が7人いる。そのうちの一人の「チュン・メイさん」からその当時のお話を聞かせてもらう事が出来た。


チュン:連れてこられた時、身長をはかられ目隠しをされた。耳を引っ張られ階段を上がったり下がったりさせられた。トイレに失敗をすると自分の舌で床をなめさせられ掃除させられた。毎日棒で背中を叩かれた。鉄の足かせの音がしても叩かれた。食べ物は1日薄いおかゆを2回だけだった。足のつめをはがされたり、感電させられたりした。自分が捕まった理由はわからない。たぶんスパイだ、と思われて捕まったのだと思う。捕まる前はテーラー(車の修理)をしていた。ここに連れてこられて初めて拷問されると知った。

:逃げようとは思わなかったのですか?

チュン:建物すべてに金網が張ってあり、電線もあって触ると感電するから逃げられなかった。逃げようとしたら殺される。

:ここから出られたときどう思いましたか?

チュン:ここから出られたときはまだ戦争が終わってなかったから戦争で殺されるかもしれない、と思っていた。家族とはばらばらの刑務所に入った。自分の奥さんとは刑務所から出た後会えなかった。強制移住の途中で5才だった娘が亡くなってしまった。きちんとお葬式を上げられなかったことが今でも心残り。


自分の娘さんの話をしている時のチュンさんは涙ぐんでいました。本当につらかったんだと思います。

お話を聞く前に菜津紀さんが「心のかさぶたをわざわざ私たちのためにもう一度はがしてお話してくれる」と言う事をききました。本当にその通りだと思いました。思い出したくないことなのに後世にこの悲しい歴史を伝え、教訓にするために話して伝えるという事はすごく勇気のいることだと思いました。

私はカンボジアに来てすぐにこの国が大好きになりました。日本にない何かがあるような気がしたのです。そして2日目はその人の温かさの裏にはつらい過去があることを知りました。カンボジアの過去に触れ、歴史を深く学んだ1日となりました。

キリングフィールドの慰霊塔の中にあった遺骨。
務所の拷問道具。この水がめの中には腐った水が入っていた。

大隅菜摘子

東京都立千早高校1年生(参加当時)。2014年春カンボジア・スタディツアーに高校生チャレンジ枠として参加。

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