カルチャーショック2:生と死の狭間で@India

2014/03/01佐藤慧

様々な価値観を知りたい―― そう思い始めた一番のきっかけは家族の死だった。弟を小児がんで、姉を自殺で亡くした僕は、死というものがあまりに理不尽で理解し難いものに思えた。まるで自分が世界で一番不幸であるかのように錯覚し、生きることへの意味も見出せずに過ごしていた。そんな時、ふと思った。死とは全ての人に与えられている運命であり、何も自分だけがその得体の知れないものに戦(おのの)いているわけではないと。

「キサーゴータミー」という仏教の逸話がある。ある時釈迦は、キサーゴータミーという女性に息子を蘇らせて欲しいと頼まれた。釈迦が彼女の家に行くと、既にその男の子は死後数日経っていた。唯一の家族であった息子を失ったキサーゴータミーは釈迦にすがりつく。そこで釈迦はこう言った。「かつて一度も死者を出したことのない家で取れた護摩を焚けば、その子は蘇るだろう」。彼女は必至に町中を駆け回り、そのような家を探す。しかし、当然ながらそんな家は見つからない。9日間必至に駆け回ったキサーゴータミーは、安らいだ顔で釈迦のもとに戻ってきた。彼女は死というものが受け入れるしかないものであるということを悟ったのだ。

僕は仏教徒ではないし、特定の宗教に属しているわけではないが、仏教の持つ死生観には共感するところが多い。縁起の中で生まれ、死に行く人の生涯を大きな流れの一部として捉える感覚には気付かされるところが多々あった。

そんな仏教の発祥の地であり、釈迦の思想を育んだインドという地への憧れがあった。実はいわゆる”途上国”と呼ばれる国を旅するのはこの時が初めてだった。真夜中のデリー(インドの首都)でオート三輪に囲まれたり、詐欺まがいの絨毯売りに拘束されたり、列車が牛の昼寝で止まってしまったりと、様々な固定観念をぶち壊してくれる旅だった。香辛料の効きすぎたカレーで腹をくだしながら、聖なる河、ガンガー(英語ではガンジス)を訪れた。

現在のインドではヒンドゥー教徒が8割を超え、仏教徒はわずか0.8%しかいないらしい。それでも、縷々と流れる死生観には、その土地が育んできた空気が深く寄与しているのだろう。広大な河のほとりで焼かれる人々や、町はずれで野良犬が人の死体を食む光景を見ていると、自分の持っていた死生観が如何にちっぽけなものであったかを考えさせられる。

人は、死ぬのだ。それは、全ての人に生まれながらにして与えられた運命であり、逃れようのない事実なのだ。死とは何であるか。それが単に無に帰することであれば、生きるということにどれだけの意味を見いだせるだろう。

しかし、死とは無ではなく、生から続く流れの形態に過ぎないのではないか。夕日に赤く染まるガンガーの流れを眺めながら、深遠な宇宙に溶けていく。気付けば腹が鳴り、明日の一日を生きるために他の命を我が身に頂く。相変わらず香辛料の効きすぎたカレーだったが、ガンガーの流れは格別なスパイスとなり、生きる意味を考えさせてくれた。

(2010年10月 旧E-PRESS掲載)

佐藤慧(Kei SATO)

1982年岩手県生まれ。国際開発の分野に関わり、アメリカ、アフリカ、中米などで経験を積む。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、命の尊厳や愛を伝える手段としてのジャーナリズムや芸術活動に希望を託し活動を開始。言葉を探しつつ、風に吹かれ、根無し草のように自由に世界を漂いながら国家、人種、宗教といったあらゆる境界線を超えて、人と人との心の繋がりを探求し、それを伝えていく。

カルチャーショック

comments powered by Disqus

Next Quest