母を探して ―陸前高田から―

2014/03/01佐藤慧

3.11

遺体安置所の空気は冷たく重く、大切な人を探しに訪れた人々の全身に気怠くのしかかっていた。呼吸するたびに鼻孔を刺激する「死の香り」は、徐々に僕の脳を麻痺させていく。目の前に横たわる数百の遺体を前に足が竦んだ。ここで母を見つけるのだ。彼岸と此岸を区切る境界線が徐々に溶けていく。意を決し、僕は母の魂を求めてその足を踏み出した。

僕がその第一報を耳にしたのは、日本から遥か遠く、アフリカはザンビア共和国に滞在している時だった。コンゴ民主共和国の紛争の原因となっている鉱物資源の取材のために、2月中旬からアフリカに渡っていた。ひと通り取材に区切りがついたところで、通いなれた隣国のザンビアに移動、次の取材の準備をしていた。

「東北地方で地震があったらしい」

岩手県出身の僕にとって、東北地方で地震が起こることは別に驚くべきことではなかった。もとより三陸沖は地震の多い地域、今回もいつもと同じような、本棚が倒れたり食器が割れたりするような、そんな地震なのだろうという思いがあった。一応ニュースをチェックしておこうかとPCを開き、インターネットに接続した。そこに現れたニュースは僕の想像を遥かに凌駕するものだった。「未曾有の大災害」という言葉が画面の至る所に散乱していた。生憎インターネット回線は遅く、動画でニュースを視聴することは出来なかったものの、東日本に壊滅的な津波が押し寄せたのだということは即座にわかった。

数時間後、BBC、CNNでも日本の様子が放送され始めた。そこに映し出された映像に僕は我が目を疑わずにはいられなかった。

町がまるごと津波によって流されていく。

陳腐な表現だが、それはまるで特撮映画のワンシーンのようだった。子どもが公園の砂場でミニチュアの家や車の頭上からバケツで水を流したかのように、そこに映る人工物は小さく、脆く、儚かった。

僕がその映像を見て咄嗟に考えたのは両親のことだった。僕自身は岩手県の内陸で生まれ育ったものの、両親は数年前から岩手県南部沿岸の町、陸前高田市に移り住んでいた。TVに映し出された映像は宮城県沿岸部のもの。そこでこれほど甚大な被害が出ているのなら、陸前高田市が無事であるわけがない。即座にインターネットで陸前高田市の情報を収集する。しかしそこには陸前高田の状況を知らせるニュースはなかった。北の大船渡、南の気仙沼の情報が出ているのに、なぜ陸前高田の情報が出てこないのか。考えられる状況はふたつ、たいした被害が出ていないか、被害が甚大過ぎて誰も報告できないか、そのどちらかだろう。そして、おそらく後者であろうことは容易に想像出来た。

数時間後、岩手県警が陸前高田市上空から発した言葉を聞いて、僕は緊急帰国を決意した。

「陸前高田市、市街地確認出来ません!」

即座にインターネット上のニュースを埋める「陸前高田市壊滅」という文字。それが意味するもの、それは両親の命が絶望的な状況にあるということだった。

叩き潰された町

緊急帰国を決め、荷物を整え空港に向かう。「今日本に帰ったら危ない」と、ザンビア人の友人が僕を制止した。空港のTVには福島原発の様子が流れていた。大地震、大津波、原発事故、一体日本はどうなってしまったのだろう。

地震や原発事故の影響で、成田空港も騒然としているようだった。僕が緊急帰国のために手配したチケットは4枚。ザンビアから南アフリカ、南アフリカから香港、香港から韓国、そして韓国から日本へ。香港から日本への直行便を選ばずに韓国を経由したのは、万が一日本への便が欠航になったとしても、韓国からなら南下し、船で日本に帰れるという計算があったからだ。幸い成田空港は業務を再開し、21時間かけて僕は日本の地を踏むことができた。

長いフライトの中、なぜ自分が今飛行機に乗っているのかわからなくなる瞬間があった。日本で起きていることが、現実味のない遠い昔話のように思えた。全ては夢なのではないか。日本で地震や原発事故など起きていないのではないか。そんな儚い望みは、空港で乗り継ぎをする度に触れるニュースで打ち砕かれ、そしてまた新たな不安が胸の内を占めていった。

成田空港に着くなり東京に住んでいる弟に電話した。両親から何か連絡があったかもしれない。「安否不明」。弟の口から聞くその言葉に、僕の抱える不安はより一層輪郭を持って浮かび上がってきた。

直ぐにでも両親を探しに岩手に向かいたかったが、中々車とガソリンが手配できず、悶々としたまま数日が過ぎた。そんなある日、見覚えのない番号からかかってきた電話に僕は手を伸ばした。

「慧か?日本に帰って来ているのか?」

それは父からの電話だった。震災後初めて聞く父の声。父が生きていたことを知り、全身の筋肉が弛緩していく。県立高田病院に勤務していた父は、4階にいながら首まで海水に浸かり、それでも患者の心肺蘇生に尽力した。その後屋上に避難、凍える夜を過ごした。翌日には救出され、すぐに仮設診療所で働き始めた。しかし数日後には心身ともに疲弊し倒れ、盛岡市内の病院に入院したということだった。

翌日、やっと手配出来た車で北上し、一命を取り留めた父と再会することが出来た。いつも気丈な父が、この時ばかりは力なくうなだれていた。依然として母の安否が不明なのだ。父から聞いたところ、母は地震発生後、自宅の前で2匹の犬を連れているところを近隣の人に目撃されている。

退院した父と共に陸前高田に戻り、母の消息を追うことにした。きっと母はどこかの避難所で生きている、そう思っていた僕は、被災地の惨状を目にし、その微かな希望を粉々に打ち砕かれた。余りにも想像を絶する光景。いつも母と買い物に行っていた近所のスーパーは、何ひとつ残さず消えていた。帰省する度に降りていた駅は、ひしゃげた線路を辿っても見つからない。見渡す限りの瓦礫の中に立つと様々な匂いが鼻をつく。そんな中、ひときわ鼻腔を刺激する匂いがあった。それは遺体の腐り行く匂い。命の剥ぎ取られた肉体が、瓦礫の下で朽ち行く匂い。脳のどこかが麻痺していく。母は津波に呑まれたのではないか。「死」という言葉が脳裏について離れなかった。

母を探して

その日から何度も遺体安置所に通うことになった。時は無情だ。時間が経つにつれ遺体は黒く変色し、人ではないものへと変容を遂げていく。僕はここに母の姿を見つけたいのか、はたまた、いないことに安堵したいのか、自分が何をしたいのかわからないまま、黙々と遺体の顔を覗き続ける。急に訪れた春の陽気は、魂の抜け殻を容赦なく腐敗させていく。このまま母の遺体が見つからなければいい、そう考えていた。冷たい瓦礫と泥土に混じり、バクテリアに分解され、その姿を保つことの出来なくなった母と対峙することが怖かったのだ。1ヶ月が経ち、被災地から4度目の帰京、もう母には会えないのだと諦めかけていた時に県警から連絡が入る。青と黄色のリード(犬の散歩用の紐)を握った女性の遺体があがったらしい。

翌日、騒がしく波立つ心を無理やり押さえつけながら東京を出発した。安置所に向かう車の中、その遺体がどのような状態なのかということを考えずにはいられなかった。安置所に眠る人々の顔はどす黒く、元の姿を失いつつあった。津波に呑まれる瞬間の母を、何度も何度も思い描く。その瞬間には恐怖があったのか。どれだけの苦痛を味わったのか。2匹の犬は津波に向かって吠え立てたのか。

安置所に到着、車を降りると地面が揺らいだ。余震ではない。これから直視する現実を前に、その足が前へ進むのを拒んでいるのだ。遺体の並ぶ体育館へ足を踏み入れた瞬間、死の放つ匂いに包まれる。圧倒的な死。死は冷たく、無限に深く、静かだった。

「こちらの遺留品から本人を確認できますか?」

灰色のビニールに包まれたひとつの遺体。その足元には、その遺体が生前身につけていたであろうものが、透明の袋に包まれ置かれていた。見たことのある衣服、そして犬の散歩用の紐。間違いなく、それは母のものだった。間違いなく、それは母のものだったにも関わらず、僕の脳はそれを拒否した。母の遺留品にカメラを向ける。僕の認識出来ないこの瞬間を光の粒に分解して、永久にカメラに刻み込みたかった。「遺体のご確認をお願いします」

目の前に横たわる「何か」を包む灰色のビニール。その正面についたジッパーを恐る恐る開ける。人の顔を持った赤黒い「何か」が僕の視界に入ってきた。思考が止まり、脳が一瞬にして痺れていく。慈愛に満ちた母の笑顔と、この目の前の「人のようなもの」とを一致させることは困難だった。それでも、じっとそれを見つめていると、そこには確かに母の面影があった。微動だにせず、赤黒く、細胞の溶けゆく目の前のものは、確かに母の命を運んでいたのだ。そこには、母がいた。ずっと探してきた、母がいた。母はその命を、終えたのだ。余りにも単純な出来事だった。母は津波に呑まれ息絶えたのだ。母は、その遺体の朽ちるぎりぎりまで、愛犬の紐を決して離さず、その紐を再会への絆として、ずっとずっと、待っていたのだ。

魂のかけら

母の遺体が見つかったのは、陸前高田の市街地、両親の家から気仙川の上流に向かうこと9kmの地点だった。歩いて向かえば2時間はかかる距離。ぎりぎり津波の被害の見受けられる、一番内陸の場所だった。3月21日、僕は遅ればせながら陸前高田に入った。北から被災地に向かう僕が初めてシャッターを切った場所が、まさにその場所だった。何も考えずに切った1枚。そのファインダーの中には、母の埋もれる瓦礫があったのだ。何回、何十回と、その横を僕は車で走り抜けていた。こんなところまで瓦礫が、と思いながら、いつも横目に見ていた場所だった。母はずっとずっと僕の傍らに横たわっていたのだ。

4月16日、母の葬儀が執り行なわれた。当初は身内だけ、父と僕、弟だけでその儀式を終えるつもりだった。葬儀なんて儀式に過ぎない。この儀式が母の魂を彼岸に送り届けるなどとは思わない。そういう風に考えていた。しかし、母のことを想ってくれる人たちにその旅立ちを見守ってほしいという想いもあり、急遽身内以外の方にも参列頂くことにした。誰もが忙しい時期に、いったいどれだけの人が来てくれるのだろう。

当日、徐々に空に満ちていく雲。雨が降ったら納骨は出来ないということだから、僕はどうかその雲から雫が落ちてこないようにと願うばかりだった。父と弟、僕は待合室で無言のままお茶をすすっていた。窓の外には多くの参列者の影が見えてきた。時間となり本堂に進み、目の前の光景に息を呑んだ。70席用意していた椅子は埋まり、130人以上の人が母に会いに来ていた。母は手話通訳などの活動に携わっていたため、その会場には耳の不自由な方が多くいた。弔辞を通訳するために、2人の手話通訳者がその手を動かしていた。ひとつひとつの言葉を手で形にしていく作業は、生前の母を思い出させる。耳の不自由な人の耳となり、目の見えない人の目となり、母はその命を全うしたのだ。母の友人から贈られる弔辞が鼓膜を揺らす。その死が現実のものであるということが少しずつ心に染み入っていく。

急に雨が降り出し、荒々しく寺の屋根を叩いた。その直後に2度、聞いたこともないほど大きな雷音が轟いた。それは天からの嘶き、母と共に逝った2匹の犬の咆哮か。母は生前短歌を詠んでいた。母の知人がその短歌を弔辞の中で詠んでくれた。

海霧に
とけて我が身もただよはむ
川面をのぼり
大地をつつみ

高田の空に舞うやませ(山背)を詠んだこの歌は、母の最後の瞬間を詠んでいるかのようだった。母は確かにその自然に命を奪われた。その海は、川は、山は、母の命を無残に叩き潰したのだ。しかしその大地に、母の魂が静かに、深く染み入ったのも確かなのだ。大いなる自然への畏怖、そして感謝。命とは与えられているもの。人とは生かされているもの。母は、宇宙を流れる大きな流れに還っていったのだ。その死の苦痛は、母の言葉によって清められていく。

雨により納骨は延期となり、母の故郷、広島での告別式の後とすることにした。母は、故郷に旅したかったのではないか。その骨を、命を包んでいた容を広島まで旅させたいがために、この轟くような雨を降らせたのではないか。とけて我が身もただよはむ。僕の命もまた、いつかこの宇宙に還っていくのだ。宇宙に溶けていくその時まで、与えられた命を全うしていきたい。

(2012年2月 LIVEonWIRE_JOURNAL掲載)

佐藤慧(Kei SATO)

1982年岩手県生まれ。国際開発の分野に関わり、アメリカ、アフリカ、中米などで経験を積む。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、命の尊厳や愛を伝える手段としてのジャーナリズムや芸術活動に希望を託し活動を開始。言葉を探しつつ、風に吹かれ、根無し草のように自由に世界を漂いながら国家、人種、宗教といったあらゆる境界線を超えて、人と人との心の繋がりを探求し、それを伝えていく。

2012/03/21追記

本記事は公開以来本当に多くの方にお読みいただき、また、反響も大きかったこともあり、寄稿いただいた佐藤慧さんより感謝の言葉をいただいております。その佐藤慧さんが本記事と同じく「震災に対して『悼む』ということを沢山の人に考えて欲しい」との想いから出版された共著がありますので、ここにご紹介させてください。

『ファインダー越しの3.11』 | 安田菜津紀, 渋谷敦志, 佐藤慧

本記事、そして本書が「震災に対して『悼む』ということ」について考える機会となりましたら、嬉しい限りです。

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