矢萩邦彦×佐藤慧 理想の学校、理想の教育(後篇)

2014/03/01矢萩邦彦, 佐藤慧

準備の大切さとカッコイイ大人

矢萩:授業に限らず何事でもそうだと思いますが、準備しておいて全く使わずにアドリブで行くのはOKなんですよ。それは僕も良くやります。しかし、準備がゼロでアドリブで行くのは、ただのエゴです。生徒に失礼でしょう。僕は、大学の先生ですら、専門分野の知識を伝えるだけではダメだと思っています。ですから中高生、ましてや小学生の前に立つのであれば尚更、何が「質」なのかを自問する姿勢が必要でしょうね。それは、その「場」によって違ってくるのだとは思いますが、だからこそ、システム化が難しいのですし、人間としての力が発揮出来るのだと思います。

佐藤:つくづく、教師とは人間力が求められる職業ですね。魚屋は肉を売るようになったら肉屋ですが、教師というのは何を教えるかで区分されるような肩書きではなく、ひとつの「生き方」なのでしょうね。なので肉屋さんでも「教師」的な人はいるでしょうし、大学教授でも「教師」的でない人はいるのでしょう。教育とは何かということがもっと根本から議論される必要性を感じます。それはつまり、人は何のために生きるのか、という哲学に通じるわけですが。

矢萩:「教師的」というのは、その通りですね。そういう側面は誰もが持っているのでしょうし、そういう「生き様」を見せること自体が、すでに「教師的なメッセージ」になりますね。だから人間的に魅力がある人とは、接しているだけで勉強になりますし、思考や行動ののトリガーになりますね。

佐藤:要は「カッコイイ大人」が側にいればこどもは勝手に育つのだと思うのですが、今やその手本とすべき大人たちの人間性が疑われる時代ですからね。情報が増えすぎたせいかもしれませんが、未来に対してそんなに希望を持てない世の中になってきたような気がします。

矢萩:そうですね。身近な「カッコイイ大人」というのは、本当に必要だと思います。一般化された「みんなのヒーロー」ではなくて、「それぞれのカッコイイ大人」がもっといた方がいい。それがいないから、アイドルタレントや、漫画のキャラクターなんかに走るんですよね。別にそれ自体は悪いことではないのですが、リアルに接している大人の中にもヒーローがいないと、なんだかバランスが悪い気がするんですよね。かくいう僕自身も、「教師」になっていることもあれば「反面教師」になっていることもあると思うので耳が痛いですが、自分自身、大人になるまで大きく影響を受けるような先輩や先生に出逢えなかったんですね。身近なヒーローがいなかった。まあ、今考えれば自分の行動範囲や、受容力にも問題があったのですが。それで、僕は学校や教師に対して常に反抗的でしたし、積極的に関わろうとしなかったんです。でも、ふと思ったんですね。教師という仕事は自分が思っているよりも大変なことで、僕のイメージは実現不可能な理想論なのかも知れないって。だから、否定する前に、自分でやってみようと思い立ったわけです。

佐藤:なるほど、否定するのは簡単ですが、ならオルタナティブをどうしましょう、ということですね。実際に矢萩さんは現在小学生を対象にした塾講師の他に鏡明塾という私塾も開講なさってますが、その理想論に関しては考えが変わりましたか?

矢萩:実際にやってみて、これは僕なりにですが、自分の理想というのはある程度のところまでは実現出来るな、という実感が出てきました。例えば、僕は人間関係でものを捉えることが多いのですが、その理想像の一つに、生徒が大人になった時に「懐かしさ」ではなくて連絡したくなるような教師になりたい、と思っていました。こればっかりは続けていかないと全く持って答えは出ないのですが、最近教え子達が社会人になり始めて、少しずつ可能性というか、自分のやっていることの着地点が見えてきている気がします。

佐藤:なるほど、そこが本からでは得られない経験ですね。教師と生徒という境界線は絶対のものではないですからね。僕も僅かな経験ですが、アメリカで教師の真似事をしていたことがありましたが、教えることで自分自身が成長することを非常に強く実感しました。そこに人と人との真摯な交流があることで、両者は共に前に進むことが出来るんですね。学校は場を提供するものであり、教師は知識を押し込むのではなく、言葉を引き出す存在として在ればいい。人がそこでリアルに関わることで生まれるものを大切にしていきたいです。

お互いにリスペクトすること

矢萩:慧君にとって、これは生徒サイドからでも教師サイドからでも良いのですが、理想の教育というものはどんなイメージがありますか?

佐藤:僕の思う理想の教育とは、人と人が個人として真摯に向き合っているものですね。上から下のベクトルだけではなく、教師も生徒から学ぶことがあるという姿勢をきちんと持っていることが大事だと思います。これは親子にも通じるのかもしれませんが、親も初めて親になるわけであって、子供が生まれた瞬間から親なわけではないんですよね。その学びは一生続き、親も子供から学ぶし、その姿勢があるからこそ、子供も親を信頼出来ると思うんです。結局物事に答えなんてないことがほとんどなので、人生の最後までそれを探求し続ける姿勢を持った人にこそ、何かを師事したいと思います。僕の思う「カッコイイ」というのは、そういった人生観を持って生きている人のことですね。

矢萩:「リスペクト」は大事だと思います。日本語ラップで言葉だけは浸透しましたけど、本当の意味で相手に対する「リスペクト」があるかどうかというのは、どうも怪しいシーンが多いですね。「教師-生徒」とか「大人-子供」という捉え方をすると、どうしてもどちらかが一方的に優位な気がしてしまうのですが、教師も生徒に対するリスペクトが必要ですし、そういう姿勢から自ずと相互の関係に育っていくのだと思います。生徒に対する畏怖の念というか、そういう感覚を忘れてはいけないと思うんですね。高円宮妃殿下に「今の教育に必要なものは何だと思うか」と言う質問をさせて戴いたことがあります。その時に「リスペクト」だという回答を頂きました。まず親が子供に対して、そして先生に対してリスペクトがあれば、子供だって自ずと先生をリスペクトするものだ、と。そういう相互リスペクトの状態が現代の教育には足りない気がする、って仰っていました。教育の現場にいるわけではないのに、何と的確に話されるんだろう、と驚きました。

佐藤:そう!リスペクトですね!re+spectで“振り返って見る”という意味にあるように、人としての価値を認める姿勢ですからね。僕もザンビアで似たような質問をしたことをありますが、大切なのはrespect(尊敬、尊重)とbe modest(謙遜)だという返事が返ってきました。権威を振りかざす必要はなく、人間の器で人を惹きつけれるような人が理想ですね。

矢萩:「振り返って見る」ですか、それはまさに、ソクラテスとプラトンが目指した学習観ですね。「アカデメイア」は「想起する場」という意味でした。想起することで、自分自身と重ね、写し見る鏡になるんですね。謙遜に関してもソクラテスの言う「無知の知」ですよね。色々なことを知り、考えれば、自分が無知なことに必ず気が付くし、調子に乗れるわけがありません。

佐藤:何かを知っているつもりになることが、一番未来への学習を妨げますからね。自分の立ち位置に謙虚に、歩いてきた道筋も何度でも真摯に見つめて構わないはずです。自分は子供時代を経て大人になったのだからという自負は捨てて、素直に子供から学ぶ姿勢も大切ですね。

「思考をデザインする」

矢萩:アフタモードでは「思考をデザインする」というテーマを掲げているわけですが、知ることと行動することのバランスが取れていない気がするんですね。例えば教育の世界でも、ちょっと手を伸ばせば経験出来ることをスルーして教え続けている教師が多いです。なにも教科書に出てくる全ての国に行けなんて言っているわけではなくて、ほんの少しのリアルを織り交ぜることが彩りや説得力にも繋がると思うんですね。能動的な読書なども経験だと思いますし。逆に活動家と呼ばれるような仕事をしている人達は、机上のことを軽視しすぎている嫌いがあると思います。もっと勉強した方がいいのに後回しにしてしまっている。その辺のバランスをとることの重要さを扱っていきたいですよね。慧君は勉強しつつも、地球を飛び回って活動をしているわけですが、活動家として世界を見たときに、やはりバランスの悪さは感じますか?

佐藤:インプットとアウトプットのバランスは非常に大事ですし、難しいことでもありますね!僕自身、受動的な学習が続くと堪らず外に出たくなり、外にばっかり出ていると書斎が恋しくなるのですが、まだまだうまく両立出来ているとは言えません。でも、結局インプットとアウトプットを両輪としてうまく機能させないと、前には進めなくなるんですよね。左車輪の動かない車では、延々と左に旋回し続けるだけで、轍は深くなっていきますが前には進んでいけませんよね。轍が深くなって身動きが取れなくなる前に、反対側の車輪を動かさないといけません。こういうことをきちんと教えている教育機関があるのか僕は知らないのですが、何かしら自分の道を見つけて前に進んでいる人というのは、このバランスが非常によくとれた人だと思います。現行の学校教育では、学んだことをどう使えばいいのかわからない、アウトプットの仕方がわからないという本末転倒な事態に陥りやすい状況なのかな、とは感じますね。

矢萩:そうなんですよね、この両輪というのは、自転車みたいなもので、バランスとって乗れるようになると、自動的に両輪でないと進めないことを実感出来るようになりますね。問題は、そういう感覚を持っている人は、多くの場合独学で自らその方法を発見している気がするんです。それはそれで正攻法なのですが、それを教育の現場で出来れば理想的ですよね。

佐藤:勉強というものは一生続くものなのですが、多くの人が教育機関を卒業すると、途端に勉強する時間が限られてしまっていると思います。もちろん、生活していく上での時間配分が変わってくるということもありますが、もっと重要なのは、「自分で勉強出来る技術」を持っているかどうかなんですよね。僕は完全に独学型で、言語の習得も単語帳と簡単な文法書さえあればこと足りるのですが、勉強する方法がわからないと言う人の話を聞いたときに、自分は恵まれた環境に育ったなと感じました。

矢萩:色々なことをやっていると、時間の問題は良く聞かれますね。よくビジネス書などで「タイムマネジメント」なんていう言葉を目にしますけれど、そんな一冊かけて説明するようなことではなくて、要するに手に入れたい時間と引き替えに、どの時間を差し出すかということなんですよね。代償の感覚がないと、時間管理は出来ないと思います。スピード上げるって言っても限界がありますし、それぞれにあったペースっていうものがありますからね。僕の場合は単純にテレビを見ない。車は使わず移動時間は読書。という二つで時間を捻出しています。あとは同時進行出来ることは同時にやりますし、結合出来ることは結合してしまいます。そういう自分なりの時間管理や、独学の方法というのも教育の場で作れれば良いですよね。

佐藤:同意です。時間の捻出は人生のプライオリティをきちんと考えることで自然と答えが出ます。結局ここでも「何のために生きているのか」という問いが重要になってきますね。僕らが良く使う言葉のひとつに「OS」というものがありますね。Operating System。僕はそれを全ての思考の原点になる根っこのようなものだと捉えているのですが、このOSをデザインすることこそが教育の重要な部分かもしれませんね。歴史を学ぶとは年号を暗記することではなく、時間軸に起こった出来事を整理し、そこに関わった人々の人生を思うことでもあります。芸術を学ぶとは、ピカソの『ゲルニカ』を知識として身につけるわけではなく、表現の手段を知り、自分と世界を繋ぐ道具を知ることでもあります。「思考をデザインする」というアフタモードの理念は、次世代の教育を考えるにあたって的を得ていると思いますね。

矢萩:まさに「OS」のデザインというのは、教育の根本なのではないかと思います。江戸の私塾での教育は師が心の中で生き続けるような、そういう教育だったと言いますが、それはOSのデザインだったのではないかと思います。「何のために生きているのか」というラディカルな問いは、なかなか簡単に答えることは出来ないですが、そういう問いをいつも胸に持っていること自体が重要なんだと思います。この人はこういう風に生きている、では自分はどうだ? と思わせるような生き様の師が、関わる人のOSをバージョンアップしていくのでしょうね。(アフタモードのマークは実はOとSなんです!)

佐藤:アフタモードの理念に教育、アート、ジャーナリズムの3つがありますが、教育とジャーナリズムは両輪、アートの概念は空へと羽ばたくための翼なのかもしれません。きちんと両輪を回して加速をつけていきたいところですね。

矢萩:そうですね。3というのは動きの連鎖と生産性を表す数字です。と同時にアフタモード的にはトライ/アングル、挑戦的視座です。そういう思想を大切にしつつ、新たな理想に向かいましょう。これから始まる新たな冒険、是非たくさんの方に参加して戴きたいですね。思考をデザインする苗代のような場所にしていきたいと思っています。慧君、初対談お疲れ様でした!

佐藤:また次回も楽しみにしています!

(2011年2月 旧E-PRESS掲載)

矢萩邦彦(Kunihiko YAHAGI)

教育・アート・ジャーナリズムの現場で活動し、一つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を目指す日本初のアルスコンビネーター(命名は松岡正剛)。予備校でレギュラー授業を持ちながら、全国で江戸的私塾『鏡明塾』を展開、分野にとらわれない現代版陽明学を実践している。学校機関でも特別講師として平和学・社会学・教育学など講演。また教育コンサルタントとして学生や保護者へのアドバイスに留まらず、講師研修・企業研修等も手がけている。代表取締役を務める株式会社スタディオアフタモードではジャーナリスト育成や大学との共同研究に従事、ロンドンパラリンピックには公式記者として派遣された。

佐藤慧(Kei SATO)

1982年岩手県生まれ。国際開発の分野に関わり、アメリカ、アフリカ、中米などで経験を積む。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、命の尊厳や愛を伝える手段としてのジャーナリズムや芸術活動に希望を託し活動を開始。言葉を探しつつ、風に吹かれ、根無し草のように自由に世界を漂いながら国家、人種、宗教といったあらゆる境界線を超えて、人と人との心の繋がりを探求し、それを伝えていく。

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