過去と向き合う――カンボジア、虐殺から30年目の覚悟

2014/03/01矢萩邦彦

ポルポト政権下で15000人以上が虐殺されたというトゥール・スレーン強制収容所。その中でたった7人生還した内の一人で、現地では安田菜津紀もお世話になっているチュム・メイ氏が来日した。その貴重な講演を聴きに、10月23日、立教大学へ足を運んだ。主催はAIICという平和研究ユニットだ。

僕がはじめてトゥール・スレーンを訪れたのは、2008年だった。同行した安田菜津紀は、何度も入りたい場所ではない、といって外で待っていた。実際に拷問に使われた部屋に、拷問器具が無造作に置かれている。その、絶望が染みこんだ壁には幾つもの叫びがそのまま反響し続けているようで、何度も胸がつかえた。錆び付いたベッドの骨組みには、穏やかな光が射し、何とか時間を食い止め、過去を照らし出そうとしているように見えた。

現代の穏やかな日光が、凄惨な過去を照射する。

1975年4月17日、プノンペンにポルポト軍が侵攻し、チュムさん一家は強制移動させられる。ポル・ポト軍が探していた船の修理工に立候補して採用されるが、家族とは引き離されてしまった。

1978年、突然CIA・KGBのスパイ容疑がかかり、仲間3人とトゥール・スレーンに連行され、拷問を受けた。背中を殴打され、爪を剥がれ、指を折られた。「CIA」という単語の意味も知らなかったチュムさんは、電気ショックの拷問で朦朧とする中、誰かが「自白」という言葉を言っているのが聞こえた。とにかく自白しなければ殺されてしまう。12日目の朝、意味も知らない組織のスパイであることを自白した。

独房では繋がれた鎖が音を立てただけで、200回も殴られたという。

集団房に移されたチュムさんは、修理工に積極的に立候補した。集団房に移された後は、キリング・フィールドに運ばれて、撲殺される。同じ鎖に繋がれた仲間が毎晩12時前に連れて行かれた。ポル・ポト軍に必要な技術がない者は2、3日で処刑された。何とか生き延びるために、虐殺の記録を取るために酷使されたタイプライターを直し続けた。

損傷した頭蓋骨の形相は、激しい撲殺を今に伝えている。

1979年1月7日、カンプチア救国民族統一戦線によりプノンペンは解放された。収容所から逃げ出したチュムさんは奇跡的に生き別れになっていた奥さんと一人の子どもと合流することが出来たが、束の間二人はポルポト軍に銃殺されてしまう。銃弾を受けた奥さんは「逃げてください」と一言を残してこの世を去った。

チュム・メイ氏は現在79歳。カンボジアにおける最初の犠牲者組織「Ksaem Ksan(クセム・クサン)」の会長として、語り部ボランティアをしている。公演後、束の間お話をすることが出来た。今、教育に必要なことは何か、という僕の質問にチュム・メイ氏はこう答えてくれた。「とにかく、有る「資料」をちゃんと子どもたちに伝えて欲しい。あれだけ凄まじい現実だったことを、今は知らない人ばかり。先生や大人が、資料について話すことで、興味を持つ子どもが増えると嬉しい。誰かから聞いて、日本から来てくれるのが本当に嬉しい。ポル・ポトのことを、日本でも伝えて欲しい」。

大人だけでなく、2000人の子どもまで「スパイ」の容疑で虐殺されたという。

2009年2月、解放から30年を経たカンボジアでは、ようやくポル・ポト派を裁く特別法廷が開かれた。トゥール・スレーン強制収容所の所長だったドッチは、懲役35年の判決を受けた。続いて開かれる最高幹部4人の判決が同じようなものだったらショックだ、とチュム氏は語る。

「私の気持ちでは死刑になって欲しい。若い人が怖くて真似しないように。二度と繰り返さないように。ポル・ポト時代の問題は、カンボジアだけでなく世界人類の問題だと思っています。みなさんと平和と正義のある世界を作りたいと思います」。

全てを受け入れて覚悟を決めた瞳は、驚くほど澄んでいた。経験は、言葉は違えど、飯田進さんと同じことを伝えようとしていらっしゃるのだろう、とその目を見てすぐに感じた。「Ksaem Ksan」とは、虹という意味だそうだ。虹は嵐や豪雨の後にあらわれて、天と地を繋ぐ。僕らは虹を待つのではなくて、共に虹を作り、いや、僕らが虹になることが平和への近道なのではないだろうか。

(2010年10月 旧E-PRESS掲載)

矢萩邦彦(Kunihiko YAHAGI)

教育・アート・ジャーナリズムの現場で活動し、一つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を目指す日本初のアルスコンビネーター(命名は松岡正剛)。予備校でレギュラー授業を持ちながら、全国で江戸的私塾『鏡明塾』を展開、分野にとらわれない現代版陽明学を実践している。学校機関でも特別講師として平和学・社会学・教育学など講演。また教育コンサルタントとして学生や保護者へのアドバイスに留まらず、講師研修・企業研修等も手がけている。代表取締役を務める株式会社スタディオアフタモードではジャーナリスト育成や大学との共同研究に従事、ロンドンパラリンピックには公式記者として派遣された。

Cue Words

Powered by Wikipedia.

過去に学ぶ

comments powered by Disqus

Next Quest