語り継がれる教訓〜3年ぶりに被災地を訪れて

2014/06/05笠原正嗣

3年越しに触れる被災地

2014年の3月11日が近づくにつれ、「あれから3年」といった表現がマスメディアを中心に使われはじめた。どこか遠くの出来事であるかのようにも聞こえる言葉だが、今なお、東京-大阪間とほぼ同じ約400kmの沿岸部が東日本大震災の影響を受け続けている。この広大な範囲に及ぶ被災の現場から、私達は「東日本大震災の教訓」を得ることとなった。多大な犠牲による教訓を「次」に活かし、一人ひとりが生き残ることは、私達の義務と言える。しかし、その教訓に私達はどれだけ触れることができているのだろうか。

東日本大震災に関連した膨大なデータ、いわゆる「ビッグデータ」を活用した災害時対応が進められているが、そこには、教訓を生かすために必要な「被災者個々人のそのときの感情」が欠けていることに気づく。そのため、どうしても無機質に感じられ、リアリティを持つことが難しい。今居る場所から「避難しろ」と言われてすぐに逃げられる人はどれだけいるだろう。日常が突然壊されたとき、冷静に判断し生き残るためにも、恐怖やパニックに呑まれないよう訓練をすることが大切だ。その方法の一つとして、データによる分析結果を知るだけでなく、そこに被災者の持つ「恐怖の記憶」を重ねることで、「何が怖かったのか」、「何ができなくなったのか」、また「何をしたのか」、私達が「想定できない起きた現実」をシミュレートすることができるようになる。それは血の通った人間が伝えてくれる切実な体験談だからこそ、私達の身に「何か」が起きたとき咄嗟の判断に役立つ記憶となる。

現在、被災地には「語り部」となった人たちがいる。あのときの体験をなんとか伝えていこうと努力し、訪問する私達にとても貴重なヒントを与えてくれている。

2011年4月中旬以来、約3年ぶりに私は同僚の佐藤慧に誘われ、津波によって甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市に足を踏み入れる機会を得た。短い間ではあったがこの地を訪れ、遠く離れた都市に居続けた自分が、3年越しに被災地へ触れて感じた想いを綴らせてもらおうと思う。

二度目の反省、三度目の正直

今回現地を訪れる前、少し東北の過去に触れてみようと柳田國男の本数冊に目を通した。柳田國男は明治期に現地調査も兼ねて東北に入り、「語り部」の人達から様々な物語を聞き集めた。本を読んでいるときは、語り部の話をまとめたくらいにしか考えていなかったのだが、実際に津波を経験された「語り部」たちと会うにつれ、そもそも「語り部」の担う役割とは何なのか、この人達が語り受け継がせようとしている事とは何だったのか、改めて考えさせられることとなった。

「三度目の正直」という言葉があるが、なぜ三度目に正しく直すことができるのだろうか。結果が評価されることの多い現在、「三度目に直せたかどうか」が気になるところかもしれないが、一度立ち止まって「二度目に何があったのか」を考えてみることも大切なのではないだろうか。語り部となった現地の肩の声を耳にして、そこに僕は「教訓」と呼ばれるものを感じるようになった。一度失敗し、二度目も同じ失敗をした。だからこそ、反省し、後悔もあり、三度目には何とかして直そうと思えるのではないか。

もしかすると、教訓というものは「一度活かせなかった事」が起きない限り、その教訓を他の人、次の世代へ受け継いでいくことが難しいのではないだろうか。防げたかもしれない被災を体験した人達だからこそ、改めて先人が残した過去の津波被害を伝える石碑を確認することができる。そして、それらがずっと自分たちに警告し続けていたことに気づくことができる。普通に暮らしているなら「ここまで津波が襲ってきたから気をつけろ」と刻まれた石碑の文字なんてあまり注目しないだろうし、仮に読んだとしてもリアリティを持てる人は稀だろう。電柱に貼られた広告を覚えていないのと同じで、そもそも自分に「関係ない」と思っているなら、それは認識の外に置かれてしまう。世代を隔てたメッセージであるなら、なおさらのことだろう。それでも様々な災害は再び起きてしまう。そして「改めて」見直す状況にさらされたとき、はじめて世代を越えた後悔が生まれ、過去に発せられた声は、現在を生きる人々の心に届くことになるのではないだろうか。

そう遠くない将来に南海トラフで大きな地震が発生すると想定されているが、東北地方で多大な犠牲のもとに生まれた教訓を、今もどれだけの人が意識できているのだろうか。情報化社会なのだから、やろうと思えば情報を蓄積し、同時に、必要とあらば世界のどこへでも伝達することは可能だ。しかしそれら情報の中に、「被災した人たちの後悔」まできちんと乗せることはできていると言えるだろうか。その悔しさも含めて伝えていかなければ、「石碑を見ないこと」と同じ事になってしまう。情報が残っていても、受け手が解釈しなければ知恵として役立てることは難しいだろう。マスメディアは画面や紙面を通じて現場の一部を私たちに届けているに過ぎない。勿論、これは誰もが気づいている事なのだが、英語で“I see”というフレーズがあるように「見る」と「分かる」は表裏の関係にあり、その一部を画面越しに見た人が、「部分から全体を組み立て直す」事はとても想像力の要る作業になる。そこで一度、「なんとなく分かった気」になってしまうと、そこから先を深く考えることを止めてしまいがちになり、それが結果的には、現場の実情と自分の生活感覚とを隔てていく原因になっているのではないか。

「爪痕」を自身に刻む意味

つらいことがあっても地元に残り、生き残った人々からそれぞれの物語を集める人がいる。過去の痕跡を調べ、伝えようとする人がいる。情報を集め分析し、今後の危険を警告する人がいる。まだまだ困難も多い復興を見据え、活動されている人がいる。そのひとりひとりが、僕らでは想像することすら叶わない体験を持ち、生き続けている「語り部」たちだ。

神戸市にある阪神淡路大震災を伝える「1.17希望の灯り」を種火として、陸前高田市へと贈られた「3.11希望の灯り」のある伝承館の職員さんは、自ら人に伝えることができないという津波体験者の話を集め、自身が語り部として、来訪者へと代語りしてくれている。その話の最後に、職員さんはこう語ってくれた。

「最後に3つのお願いをしています。一つ、駐車する時はすぐに出られるように、お尻から車をいれること。二つ、親戚の家の電話番号を確認して、家族内のネットワークを確保すること。三つ、津波のときはてんでんこ。自分の周りの人が必ず逃げていると信じて自分も逃げること。来てくれた人達が防災意識を少しでも高めて帰って行ってもらうことが私の目標です。来てくれてありがとう」。

「語り部」を担う人々は何を伝えたいのだろう。過酷な状況だったことを伝える以上に、この方達は訪れた僕たちのことを気遣い、僕たちの周りの人々にまで声を掛けてくれている。「自分たちと同じ思いをして欲しくない」、そう思って今もメッセージを送り続けている。

危機対応において大切な事は徹底したリアリストになることだが、地震と津波の怖さを「身をもって知っている人」だからこそ、次の災害に対して現実的な想定と対策を考えることが出来る。時にその内容は私達の日常からすると過酷な現実を突きつけてくることもある。地下鉄は地震に強いと言われているが、津波に襲われれば路線が水没する恐れがある。あちらこちらに網の目のように張り巡らされた地下の路線図は、一瞬にして地下水路になってしまうかも知れない。最悪のケースを想定し有事の状況を平時に考え、それを自分の持つ感覚にまで具体化し備えていくための想像力を得るには、やはり災害の爪痕に一度「直に」触れてみることが良いだろう。自分の想像と現地の現実とのギャップを体感することで自身の甘さを再認識でき、止まっていた思考が動き出すきっかけになる。

今も残る、街ひとつが壊滅したままの現場を目の当たりにすると、かつてそこで営まれていた日常を想像することはできず、まるでそこが最初から荒野だったのではないかという気がしてくる。何も残っていない荒涼と広がる平地に、「そこが津波に呑まれた」のだという現実感がじわじわと拡散していくようだった。その夜の闇はとても深く、初日に感じた星月の輝く夜とは全く別の世界がどこまでも続いてくようで、悪寒すら感じ、気を抜くと吸い込まれてしまうような怖さがあった。しかしそれは、一方で土地が再び息を吹き返そうと努める「ケガレ(気-枯れ)」から「ハライ(祓-霊)」への途上段階にあるようにも見えた。

地縁と散縁

復興計画に今回の教訓は生かされているのだろうか。私が現地で見たものは、自然と人間がまるで対立関係にあるような工事風景だった。まず前提が、「海」と「津波」を同一のものとして扱い過ぎているように感じる。「津波」とは海が時々見せる暴力的な表情であり、当たり前だが「海」そのものではない。「最悪の状況」を想定し対策することは勿論大切なことだが、それを理由に街そのものの「日常の機能」を犠牲にするような計画にはどうしても疑問が残る。今でもところどころ、海岸には防波堤の残骸が崩れたドミノの様に無残に転がっており、自然に対する人間の力の限界を物語っている。良いところも恐ろしいところもある海を「すべて敵視」するのではなく、限りない恵みも与えてくれる海と「共存」できることを考えた復興計画が必要ではないだろうか。規模の未知数な津波に抗っていくのではなく、共に上手く寄り添っていくような復興を考えなければ、南海トラフなど、今後危ぶまれる別の沿岸地域へのノウハウの転用も難しくなる。被災地で築かれた貴重な教訓を活かし、災害時の情報発信や津波発生時の避難経路の改善において、自然と人間の関係性を考慮しながら一つ一つ丁寧に考え直すことは、我々にとって避けられない「反省」のひとつではないだろうか。

未だ多くの傷跡を残す陸前高田市だが、それでも現地の人達の中には、この3年間で前を向き、力強く歩みはじめている人がいる。黒崎神社の禰宜の小松裕一さん、民宿志田の菅野修一さん、米崎小仮説住宅自治会長の佐藤一男さんや東平享浩さんと、顔をださせて頂いた先々でお酒を振る舞ってもらった。朝一にお邪魔させて頂いた港では、佐々木商店さんの採れたての「雪解け牡蠣」を海水で蒸したものを、出荷の一足前に食べさせてもらった。本当に美味しくて、土地と海の恵みの胎動を実感させられる経験となった。

こうした、ちょっとしたきっかけで知り合った人々との触れ合いが、大都市ほど希薄になっているように思うのは、多くの人が感じている事だろう。ケータイ電話のやり取りは、遠くの誰かのために目の前にいる人との関係を排除していることにもなるし、目の前に友達が居てもメールで別のどこかにいる人とやり取りする光景が当たり前になってきている状況は、考えてみると不気味に思えてくる。いざ何かが起きたとき助け合わなくてはいけない人は「目の前に居る人」だということを頭の片隅に入れておくべきではないか。群集の行き交う都会の駅では、普段システマチックな音声と色彩が、テンポよく僕たちを捌き誘導してくれている。しかし有事となれば、そういった諸々のシステムが機能不全に陥ることは十分に考えられることだ。そのような場合、「自分で状況を把握」し「周りの人とコミュニケーションを取る」ことが自らの命を守るうえでも必須の能力となる。

日常を円滑に過ごすための「効率化」が、有事には応用の利かないものである可能性は否定でない。逆に無駄と思われていたことが、何か起きたときに有効に作用することもある。そもそも「想定外」とは何が想定されていなかったことなのだろうか。効率が速さを目的とするなら、非効率は多様なものに触れる機会を得ることでもあり、決して反対の意味でも、どちらかが無意味なものでもない。ひとつの目的に特化することはその機能を高めるだろうが、日常の効率やコストパフォーマンスだけを考え、自分が必要だと思うようなことだけを選び、資本の論理に乗って動くだけでは、非常時に大きな危険を孕んでしまうことになりかねない。見知らぬ「専門家」の作ったシステムも、自分で考え、利用することができなければ存在しないのと同じことではないだろうか。ひとりひとりが「もし」を考え、非常時にどのように対応するのかを考えておかなければ、いざという時に実際に動くことは難しくなってしまう。その「もし」を考えるキッカケを、被災地は、「語り部」の人々は、私たちに提示してくれているのではないだろうか。

2014年3月11日14時46分。僕は東京で電車に乗っていた。あのときの時刻に合わせ、電車の緊急停止訓練が行われた。残念ながら、車内にいたほとんどの人は気にもとめていないようだった。この街に、「語り部」の声は届いているのだろうか。

笠原正嗣(Masashi KASAHARA)

大学時代は経済畑にいたが、現在は日本文化に関心を持ち書画を始める。また、古武術(新陰流兵法転会所属)や俳句・短歌・連句(道侠座所属)を通し、古来日本人が持っていた自然観や身体性を実践しながら研究中。

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