その祈りは誰の耳に

2014/03/01佐藤慧

ザンビアは、後発発展途上国という不名誉なレッテルを貼られている国のひとつだ。平均年収はひとり14万円ほど。ほとんどの田舎では1日1ドル以下の生活が普通である。38歳に満たない平均寿命の背景には、高いHIVエイズ感染率と、幼児死亡率がある。マラリアやコレラなども頻繁に人々を襲い、5人に1人は5歳まで生きることが出来ない。

しかしその悲惨な数値とは裏腹に、僕がザンビアの田舎で見たものは、人々の絆の深さ、そして優しさだった。病気や障害を持った人、親を亡くした子供たちや、体の弱った高齢者など、彼ら、彼女らは、親類や近隣の住人の温かい手助けの元、安心した生活を営んでいた。年間3万人の自殺者や、行くあてのないホームレス、老人の孤独死を抱える日本と比較して、いったいどちらが幸福な社会なのだろうかと深く考えさせられた。

そんなザンビアの首都、ルサカの街は近年、急速に近代化している。交通手段や通信技術の発達に伴い、アフリカ南部の小国は、否応なくグローバリゼーションの波に飲み込まれていった。

大型ショッピングモールにはお洒落なブティックや高級料理店が並び、iPodで音楽を聴く若者たちが映画館に通う。東京やニューヨークの街でも見かけるファストフード店では、いつ、どこで買っても同じ味を堪能することが出来る。恰好いいスニーカー、きらびやかな化粧品、高級な酒、道路沿いの広告は購買欲を刺激し、その力は勢いよく街を拡張していく。大量に流入する人、もの、金。資金を得た者は、その力でより大きな資金を手に入れていく。街全体が大きな怪物のように、人々の生活を激しい流れへ呑み込んでいった。

その街角のゴミの中で、僕は休むことなく祈りを捧げる男性と出逢った。毎日毎日、虚空を見つめ、終わりなく祈りの言葉を紡いでいく。彼と僕は共通の言語を持たず、細かな意思疎通は出来なかったが、妙に気になり、数日に渡り何度も彼のもとを訪ねた。彼は何を見つめ、何を祈るのだろう。ほとんど身動きせず、都会の廃棄物に埋もれ、休むことなく祈り続ける。

人は古来祈り続けて来た。生まれた時、その場所が偶然にも裕福な場所であったり、また逆に、貧困や痛みの溢れた場所であることもある。人智を超えた運命を前に、人には祈るという選択肢しか残されていない。祈りは誰に届くのか。真摯な祈りを前に、神は宇宙の統一理論を崩すことは無い。

こちらで目にした、とある宗教系機関紙にこんな2コマ漫画があった。

「なぜ神は貧困を放っておかれるのだろう、その気になればそんなものは解決出来る力があるというのに」「同じ疑問を神が我々に投げかけることを思うと恐縮だがね」。

人の祈りは人の心に響くのではないか。祈りとは、限られた自由の中に生きる人々に残された、最後の声ではないのか。耳を澄ませば、世界はそんな声に満ちている。そんな、喧騒にかき消されそうな声を無視することなく、少しでもその痛みを分かち合えるように、前に進んでいきたい。

(2010年12月 旧E-PRESS掲載)

佐藤慧(Kei SATO)

1982年岩手県生まれ。国際開発の分野に関わり、アメリカ、アフリカ、中米などで経験を積む。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、命の尊厳や愛を伝える手段としてのジャーナリズムや芸術活動に希望を託し活動を開始。言葉を探しつつ、風に吹かれ、根無し草のように自由に世界を漂いながら国家、人種、宗教といったあらゆる境界線を超えて、人と人との心の繋がりを探求し、それを伝えていく。

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