「被災地の現状や震災当時の悲惨さの一段上にあるもの」高校生・東北スタディツアー参加報告 相部由樹

2014/10/17相部由樹(神奈川県)

見渡す限り一面の緑。草木が好き放題に伸び、様々な種類の昆虫が飛び回り、まるで、管理の行き届いていない原っぱの様だった。しかしその一方で、昼夜不休で稼働しているといわれる「未来の架け橋」、超巨大ベルトコンベアが縦横無尽に空を分断している。自然と人工物の共存はさながら開発中の田舎の様でもあった。

しかし、そんな中でもひと際不自然に映るのは、圧倒的な住宅の少なさだ。人、車の流通は平日だったにもかかわらず比較的多く、交通量だけに限っていえば、私の地元と同じようなものだったのだが、一面に広がる緑と、ベルトコンベアから休む間もなく吐き出されうずたかく蓄積されていく土で住宅地として使っていたであろう場所は占拠されていた。ではその場所に住んでいた人々は一体どこで暮らしているのだろう。

山を道沿いに少しのぼったところにある米崎小学校、子供たちがすぐに外に遊びに出られるように設計された広い玄関の両脇には生徒達が彫ったといわれるフクロウの像が校庭を、そして、その先に立ち並ぶ仮設住宅を見守っている。震災後は仮設住宅の問題もニュースで大きく取り上げられ、連日報道する騒ぎとなっていたが、私にとってはあまり実感の湧かないものだった。

しかし、実際に目にしてみると信じようにも信じられない光景で目を疑った。サッカーゴールもなく、運動会でリレーができるようなトラックを造るスペースもない。そのかわりに、かんかん照りの校庭に黒い影を落としていたのは、まるで一階建てのアパートメントの様な仮設住宅だ。

その、ある種異様な仮設住宅の中心―校庭の中心であるべきところ―で私たちはかき氷を作った。子供たちがわれ先にと走ってくる。お年寄りが顔をほころばせながら近づいてくる。またたくまにかき氷機の周りには人が集まり、老若男女賑わっていた。

その中でも子どもたちは、各々の好きなシロップをかけ、舌に色がついたことを自慢げに友達に見せあったり、もっとふわふわの氷が食べたい、とませたことを言ったりしながらも、まだバリバリと音のするかき氷を楽しそうに食べていた。校庭に影を落とす住宅からは全く感じられないような明るさと元気な姿があった。

また、さらに仮設住宅に対して嫌な思いをしている生徒が少ないどころか、年齢関係なく全員でまとまって一つの「ファミリー」のようになっている事に、感嘆を覚え、たとえ校庭のスペースが狭かったとしても、近所付き合いの低下が声高に叫ばれている今こそ、このような地域全体が一体となって子どもを育てていく、という姿勢に脱帽した。

その米崎小学校仮設住宅の自治会長を務める佐藤一男さんのお話は、私が初めて聞く被災地の生の声で、実に生々しいものがあり、コップに手を伸ばすことさえ許されないような緊張感の中で聞くことになる。しかし、実際に佐藤氏が重きを置いて私たちに教えて下さったのは、「私たち」がどうすれば助かるのか、「私たち」はどうこれからの震災に対処すればよいのか、というてっきり聞くはずだと思っていた被災地の現状や震災当時の悲惨さの一段上にあるものだった。

次の日、前日と同じ土と草だらけの景色を見ながら、陸前高田被災地語り部「釘子屋」さんのところに向かった。周りにほとんど何もない中にたたずむ「釘子屋」さんの事務所。事務所に入ってみると沢山の写真とスクリーンに囲まれ、パソコンの前に座る釘子明さんがいた。

釘子さんは30年間ホテルに勤めあげた生粋のホテルマン。温厚そうな顔がスーツによく似合いそうだ。私たちはその元一流ホテルマンが語り部になった経緯を聞かせてもらい、そのまま一緒にバスで避難所「だった場所」や釘子さん達がまとめあげた避難所の高田第一中学校を回った。

率先して避難所を立ち上げ、とにかく避難してきた人々ををパニックに陥らせないよう、病気が蔓延しないように最大限気を使い、教室を分割し、食糧を管理したことを語る釘子さんはどこか誇らしげで私にはそれは彼の一種の武勇伝の様に感じた。しかし、誘導に徹したために51人もの消防団の人がなくなった、現在は改正され10分前には撤退する事になった、ことや、指定された「避難所」に向かった人々が避難所もろともなくなった、あなたたちも自分の地域の避難所が安全か確かめなさい、ということを語る段になると、爆発的な悔しさが彼の全身から漏れ出し、私たちの心に深く沈み込んだ。

『いまさら』ということばがいかにも聞こえてきそうだった。ところが、彼はそれでもそのネガティブな言葉を心に再び押し込め、現在の日本人の災害への意識の低さを嘆き、私たちに災害を生き抜く術を教えて下さった。それは、とても重く、深く、私たちの心に訴えかけるもので、しかと刻みこまれ、彼の話に一種の感動を覚えた。

バスの中の空気が重くなり、一人一人が自分の心に整理をつけている間、バスは5本の幼い桜が植えられている浄土寺へと動いていた。いったん津波によって浮いたといわれる浄土寺は、若干地面に埋まっている柱とのずれがあり、海岸線から約1.8キロ離れた場所まで津波が到達したことを鮮明に映し出している。

少し遅れて浄土寺に到着した岡本翔馬さんは『桜ライン311』とよばれるNPO法人の代表をしている、若くおしゃれな方だった。陸前高田というと何となく田舎のイメージが強く、漁師さんや農家さんばかりの筋骨隆々とした人たちの中で、岡本さんは「いまどきの人」な様に私には映り、非常に親近感を覚えた。しかし、そこで伺った話はただの若い人たちには到底真似できない過酷で半永久的にも思えるほどの時間を必要とする大きなプロジェクトについてだった。

そもそも、桜ライン311とは津波の到達点に桜を植えていこう、という企画だ。追悼の桜、という意味合いで植樹を始めたのがきっかけだが、自らが暗い気持ちでプロジェクトを運営していたのでは後に続かない、と先の事を見据え、後世には明るいものとして残していこうと決意した。

今の若い子供世代が故郷を自慢できるように、誇りに思えるようになればいいな、とどこかさびしそうに、しかし、やる気に満ちた表情・声で岡本さんは語りかける。個人の私有地に桜を植えるため、一人一人から許可を得らなければならず、プロジェクトの目指す未来はまだまだ遠い。相当な苦労をしてきたはずの岡本さんが最後に私たちにかけてくれた言葉「楽しんで」。その言葉を言うのにどれだけの覚悟と時間が必要だったかはここで述べるまでもないだろう。そんな言葉を胸に、私たちは港へと向かった。

バスから降りると、強烈な海の匂いが鼻に突く。地元が海に近い私にとってどこか懐かしい匂いだ。ウミネコたちがテトラポットの上にたむろしているのを尻目に私たちは牡蠣漁師の佐々木学さんの船に乗り込んだ。震災当時に使われていた水門はすっかり寂れてしまっていて、水門を閉めるために津波の警報が出ている海岸線にわざわざ向かった消防団の方の話には胸が締め付けられた。その傍らでは、新しい水門がどんどんと造られていて、数台のトラックが忙しそうに走り回っている。

こんなに冷静に思い起こせるのも船がほとんど揺れることなく落ち着いていられたからで、波の激しい海だったら不可能だっただろう。それくらいに、海は静まり返り、牡蠣の吊るされたいかだをいくつもぷかぷかと浮かばせながら、太陽の光をただキラキラと反射していた。「漁業体験」にわくわくしていた私はいかだが近づいてくるにつれてその数の多さに驚くと同時に興奮していた。

牡蠣を育てていく上でのポイントを語る佐々木さんは本当にうれしそうで見ているこっちまで幸せになれた。そんな佐々木さんが私たちに話してくださった壮大な夢は、経営革新を興し三陸のブランドを立ち上げ、自らの育てた牡蠣を自らの手で出荷する経営の6次産業化だ。もうこれはすでに始動していて、春先のまるまるとした2年物の牡蠣を「雪解け牡蠣」というブランドとして売り出している。牡蠣と言えば広島県のイメージが未だ強いが、そこに量ではなく質で勝負をかける。佐々木さんは祖父をこのたびの震災で亡くしているが、それでもその気持ちを抑え、少しでも「漁業体験」などの体験や、遊覧を通して観光で被災地を訪ねる人を増やし、地域の発展に役立てたいと話した。

最後に、今回お世話になったこの4人の方々に通じている事は、みな各々のつらい体験よりも地域全体の活性化につながることや、私たちを心配してくれている、というものだ。もう2度と同じことが起こらないでほしい、「一度目」が起きてしまった地域だからこそ、そしてそれを心の中で克服したからこそ言える言葉だ。私たちはこの言葉を胸にしっかりと刻みこんだままこれからの時間を歩んでいく。

最後の最後に、3日間のツアーに付き合っていただいた運転手様、ガイド様、2泊の間お世話になったホテルの皆さま、お話をいただいた佐藤様、釘子様、岡本様、佐々木様、米崎小学校の生徒たち、仮設住宅の皆さま、そして、このツアーを企画して下さいましたオリンパスの大関様、カメラの指導に当たっていただいた菅野様、ツアーを引っ張って行って下さった安田様、一つのツアーを通して知り合いになれた全国に散らばるの高校生、本当にありがとうございました。

写真展「高校生が見た陸前高田」の情報はこちら

高校生東北レポート2014

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