「ここに来て話を聞いた以上、被災してはいけないんだ」高校生・東北スタディツアー参加報告 深澤友香

2014/10/17深澤友香(東京都)

2011年、3月11日の東日本大震災。あの日は私の誕生日の前日で、両親と遠方から来てくれた祖母が誕生日の準備をしてくれていました。震災の当日は東京もかなり混乱していて、両親も職場から帰宅するのが遅く、家族全員が家に揃ったのは22時を過ぎた頃でした。携帯電話も全く通じず、あの時、家族と連絡が取れなくて安否の確認ができないことが、これほど不安になることかと強く感じたのを覚えています。

翌日になり、家族みんなで震災の被害を伝えるテレビニュースを見て、その被害の大きさにとても衝撃を受けました。誕生日という気分にはとてもなれなくて、でも「お祝いは別だから」と誕生日ケーキを食べました。複雑で、忘れられない誕生日です。

私の中にはその複雑な気持ちがずっとあったのだと思います。いつしか私は「被災地に行きたい」と思うようになっていました。時が経つにつれて3.11の被災地の事は3月11日にならないと振り返られなくなってしまいました。そのことに疑問を感じたのです。でも、私は3年が経った今でも被災地を訪れることが出来ませんでした。

私は写真部に所属しています。部の先輩方の中には被災地を訪れた人もいますが、私には中々そのチャンスが無く、ただ被災地へ行って写真を撮って帰ってくるという簡単な事で良いのだろうか、そもそも被災地の事を何も知らない私は被災地に行って写真を撮る資格が無いのではないだろうか…?と様々な葛藤を感じていました。

そんな中、今回のスタディーツアーの存在を知って「この機会を失いたくない!写真の力で被災地とどう向き合えば良いのかを少しでも学びたい!」と思い今回のツアーに参加させて頂きました。

これから書いていくものは、この貴重な3日間の中で私が精一杯聞いて、感じて、学んだことの記録です。

1日目

午前中に仙台に到着し、そのままバスに乗って陸前高田市へ。車内でこれからの予定について色々と説明を受けました。

段々と陸前高田市に近づくにつれて、私は車窓からの景色に違和感を感じました。何気ない日常の景色であるはずなのに、何かが足りない。そして、何かが不自然にあるような気配。

陸前高田市内に入ると最初に目に飛び込んできたのは大量の土の丘でした。切り崩した山の土砂を運ぶ「希望の架け橋」と沢山のダンプカーが土煙の中であちこちに見えて、SFのようなとても現実離れしている不思議な景色でした。

最初に訪れたのは防災庁舎(宮城県南三陸町)。最後まで避難を呼びかけた女性職員が津波によって亡くなってしまったのがこの建物です。当時、ニュースでもよく報道されていたのを覚えている方も多いと思います。それがいま目の前にあるということ。とても緊張して、動けなくて、あまりシャッターを切る事が出来ませんでした。

次に訪れたのは米崎小学校の仮設住宅。訪問したその日が米崎小学校の始業式だったので、学校から帰ってくる子供達と仮設住宅で生活している方達にかき氷のプレゼントをしました。この日はとてもよく晴れていて、絶好のかき氷日和でした。かき氷機なんて久しぶりに使ったので、ハンドルが重く感じて汗だくになったけど、とても楽しくて、何より、かき氷を食べに来てくれた人たちがみんな笑顔だった事がとてもうれしかったです。

とにかく小学生たちが明るく元気で、そっとカメラを向けてみるとピースしてくれる子、中には自分からカメラを取って(!)写真を撮ったりする子もいました。隠れちゃう子もいたけれど、でもみんながずっと笑顔でニコニコしていて何だかとても安心したような、そんな気持ちになりました。震災の時、率先して行動していたのは子供たちだったそうです。その姿を見て、大人たちも勇気づけられたと聞きました。

その後は米崎小学校仮設住宅の自治会長さんである佐藤一男さんから色々なお話を聞きました。当然のことながら生活の変化によるストレスや、親戚同士のつながりが強いという暮らしだからこそ、親戚間でのお金の問題などがあったということ、様々な気象変動が起きている今の日本は決して安全ではないと言う事、災害について事前にちゃんとした知識があれば被災者は出なかったかもしれない事、安全という意識について、いざ災害が起きたら頼れるのは自分しかいないのだという事、災害について備えることの大切さや仮設住宅でどうやって周りとのつながりを強くすれば良いのか、実際にその立場になってみなければわからないことを教えて下さいました。また、支援される側において困ったことや助かったこと、その他にも沢山、沢山、話を聞きました。中には思わず顔をしかめてしまうような重たい話もあったり難しい話もあったりして、私の頭はフル回転していました。

その中で私が特に印象に残ったのは、被災された多くの方々は「悲しい」とか「辛い」とかそういう感情以上に「もう誰にも同じような後悔をしてほしくない」「後悔させてはいけない」という感情を一番に感じているということでした。

被災地に来るまで私は、どちらかというと被災地に重たいイメージを持っていて、まだ被災された方達は悲しんでいたり、辛いと思っているのではないかと思っていました。勿論そのような気持ちは完全に忘れ去られた訳ではなく、不便な思いや辛い思いも沢山あるかと思います。でも、今は明るく前に進もうとしている。そしてそれ以上に悔んでいる。このことはとても大きな衝撃でした。もうこの悔しさを誰も感じないように、何をするべきだったのか。

本当に自分たちの避難所は安全なのか?
非常時の持ち物はそれでいいのか?
逃げるときにどうすれば良かったのか?
連絡手段は?情報はどこから得たら良いのか?

それら沢山の事を次の世代へ伝えている被災地の方達の力強さを感じた瞬間です。

また、佐藤さんの「ここの状況を知ってもらいたい以上、自分達から発信しなければ伝える事はできない」「見に行く、知りに行くのは大切な事」という言葉も強く印象にのこりました。被災地に来て写真を撮って、何か自分の為になるだろうか、何かの役に立てるのだろうか、まだそんな緊張した思いがあった私に、この言葉は少し肩の力を抜いてくれたような、そんな気がして更にもっと沢山のことを知りたいと改めて感じました。

そして米崎小学校仮設住宅から離れ、バスで宿泊先であるホテルへ。その日の夕食はとっても豪華な海鮮でした!…が私は海鮮物が苦手で(特にナマモノ)殻つきのまだ動いているウニとは未知との遭遇でした。きっとここの魚介類はみんな美味しいはずだと思って一応食べてはみたものの、なんだか甘いようなザラザラしているような…。またここに来る時には美味しく食べられるようになっていよう…と思いました。

その後のミーティングでは安田さんの撮影した写真を見ながら震災当時の事を詳しく説明してもらいました。とても痛々しい写真ばかりでしたが目をそらしてはいけないと思い、最後までしっかりと写真を見ました。中でも、希望の象徴と報道された一本松は被災地では〝希望″ではなく津波の恐ろしさを表す何物以外でもないという意識の大きな違いには、はっとさせられました。

私は誰から見た被災地を撮りたいのか。そのことをきちんと意識して初めて、被災地に寄り添っていく一歩になるのかな、と再確認しました。

2日目

2日目は早朝に起きて(流石に日の出は見られませんでしたが…)再びバスへ。震災での細かい体験などの色々なお話を釘子屋の代表の釘子明さんに聞きました。釘子屋とは、陸前高田市の被災地での体験を語り継ぎ、いずれ起きる災害に生かしてもらうと活動している語り部さんたちの事です。

最初に釘子さんからはプレハブ小屋で避難所を管理するにあたって、食事の配り方や水の確保、感染症の予防やトイレなどの留意しなければならない事や管理するための名簿など、思わず「成る程!」と目からうろこ的な効率の良いシステムなどについてお話を聞かせてもらい、震災が起こる以前の陸前高田市の写真を見せていただきました。

そういえば、私は陸前高田市の本当の姿を知らなかったとその時初めて気が付きました。初めてみた陸前高田市は土の丘で殆ど何も無くて、それが私の中の陸前高田市でした。でも、もともとは他と変わらない普通の町で、商店街や駅があって、いろんな人の日常があって…ここには何もなかった訳じゃないのだと改めて感じました。

その後はバスに乗り、実際に震災の被害を受けた建物を周りました。バスの中で釘子さんから災害が起きた時どうすればいいのか、普段からそれらに備えて何をしたら良いのか、今後このような災害が起きた時に誰一人被災しない事、守られる人から守る人になる。それが亡くなった人たちへのせめてもの供養でもあるんだ、と仮設住宅の佐藤さんのお話とも共通するお話を聞きました。「ここに来て話を聞いた以上、被災してはいけないんだ」と感じました。

次に行ったのは高田松原の道の駅でした。この道の駅は今後震災の被害を伝えるものとして残す事が決まっている建物です。中を見てみると大きな松の木が丸々一本入っていて、どこからか流れてきたタイヤや板や布、オモチャ、割れたガラスに沢山の配線管のようなものが残されていて津波の恐ろしさがひしひしと伝わって来ました。この道の駅だけでなく、その近くにあったガソリンスタンドの看板も津波が来たところまでがゆがんだまま普通に車が入ったりしていて、その辺り一帯がとても不思議な光景でした。

その後は釘子さんが避難した高台にいきました。高台にはピンク色の彼岸花が咲いていて、どこか寂しいような雰囲気でした。高台からは全体とまではいかないけど、かさ上げ工事の現場がよく見えて、そこで釘子さんから震災前の同じ場所の写真を見せてもらいました。もう同じ町には戻せないけど、でもこの町には何もなかった訳じゃないからまたやり直せる。陸前高田市の人たちがこの町をとても愛している気持ちが伝わりました。

高台から降りて駐車場に行くときに、駐車場のフェンスが不自然にへし曲がっていました。よく見てみるといろんな、しかも普段なら駐車場にないものも散乱していました。こんなところに震災の爪痕が残っているなんて思わなかったので慌ててシャッターを切りました。小さなオモチャやお皿、布きれ、使用前の歯ブラシ、カセットテープなどなど。

「このちいさなオモチャはどうやって使うんだろう」
「このお皿は醤油入れかな」
「この歯ブラシは青色だからきっと男の人が使うつもりだったのかな」
「このカセットテープはいつのだろう」

想像だけど、でもこれらは普通に人が送っていた日常の欠片であって、本来であれば何も変わらない日常だったはずのものがそこにあったような気がしました。この欠片の持ち主が今も幸せな日常を送っていられますようにと願わずにはいられませんでした。

再びバスに乗り、今度は桜ライン311の見学と、代表の岡本翔馬さんからお話を聞きました。桜ライン311とは、陸前高田市内で津波の到達した地点に桜を植えてつなぐことで、もし今後大きな津波がきた場合に「桜の所まで逃げれば被害が最小限になる」ということを伝えるためのプロジェクトのことです。生きた桜を使って手入れをしていけば大勢の人の手に触れます。すなわちここまで津波が来たのだという事を常に再確認し、この3.11の事を風化させないという目的もあります。

岡本さんはこの桜を追悼の桜、この出来事を風化させないための桜と言っていました。桜の一本一本に沢山の、そして色々な人の思いが詰まっていて、桜を育て続けることは津波を忘れない事だけではなく、この津波によって亡くなってしまった多くの方々の事をずっと忘れないという祈りが込められています。今は観光とかそういう気持ちにはなれないけど、そのうちこの桜を名所とか観光の場として利用するときが来ると岡本さんは言っていました。悲しいだけじゃなくて「今を楽しんでほしい」という言葉はこれからの復興において、大きな役割の一つになるのではないかと思います。

お昼ご飯は市内の陸前高田未来商店街で食べました。この商店街は津波で流されてしまったお店が集まってできた商店街です。小さなプレハブ小屋の商店街でしたがどのお店もかわいらしい雰囲気でした。私が食べたのは担担麺。魚介の食べられない私にとって最高のお昼ご飯でした。

お昼を食べた後は津波の被害を受けてそのままになっていた市営住宅を撮影しに行きました。5階建ての建物でしたが4階部分まで浸水していて窓ガラスや柵がすべて無くなり、窓からキッチンの戸棚が見えたり和室の電気が見えたり、柵に布団がひっかかっていたり。他にもベランダの部分に壊れた冷蔵庫が押し出されていました。5階部分が住居としてとてもきれいな形で残っているのがさらにその痛々しさを感じさせていました。

でも不思議と見るのが辛いと思うはずなのに、目をそらせませんでした。ただただ、ひたすらシャッターを切っていました。建物の時間は3.11のままずっと止まっているように感じるけど、そのすぐそばでは沢山の雑草が育ち時間は進んでいる。命の失われたところに新しい命が芽生えている。ふとアンコールワットを押しつぶさんばかりに生えている巨木の事を思い出して、植物って、命って強いんだなと感じました。

その後は一番楽しみにしていた漁業体験でした。途中まで雨女の私は船が出るか心配でしたが何とか船を出すことが出来ました。漁船に乗せてくれたのは佐々木商店の佐々木学さん。牡蠣の養殖をしている漁師さんです。

船に乗るのは初めてではなかったので酔いませんでした!船の上からみる陸前高田市もまた新鮮なもので、希望の架け橋や幾つもの重機を眺め、改めてその規模の大きさを知りました。希望の象徴でもある一本松の姿は「希望の架け橋」に隠されていて、少し皮肉に感じました。

海の上には幾つもの筏が浮いていて、ここに沢山の牡蠣が育てられていました。この状態にたどり着くまで3年。佐々木さんが育てている途中の牡蠣を引き上げてくれたのですが、その時の佐々木さんの笑顔が今までの苦労を覗かせているような、そんな気がしました。

他にも牡蠣についた、いらない貝を処理するための作業の見学や筏の上で歩いたり跳ねてみたりという体験もさせて頂きました。

船から降りた後は佐々木商店についてや、この脇ノ沢漁港の震災当時についてのお話を聞きました。震災の被害を受けて、どうすれば再び陸前高田の牡蠣が注目してもらえるのか、何で勝負するのか、という内容です。牡蠣にブランドを付けて知名度をあげる戦略やこの牡蠣養殖を身近に感じてもらうツアーなど、方法はあります。でも実際にはコツコツと少しずつでも復興に向けて努力し続けていく現実なんだと思いました。

ホテルに戻ってからは更にパワーアップした夕食で今度はアワビと未知との遭遇があり、再びミーティングをしました。ミーティングでは映像を見たり新たな写真を見たりしました。ここで何故、三陸の漁師の人たちは再び海へ戻ったのか話をしました。「孫の一言で海に戻る決心がついた」「やっぱり三陸の海は宝物だから」と聞き、ここでも住民の方は心から陸前高田市を愛しているんだという思いが感じられました。

3日目

この日の午前は昨日のミーティングで話し合って決めた場所へ訪問しました。最初に行ったのは気仙中学校。ここも津波で校舎の中身が殆ど無くなっていました。近くまで寄って撮影することは出来ませんでしたが遠くからでも津波の恐ろしさは十分に感じられました。

次に漁船に乗った近くの脇ノ沢の防潮堤跡に行きました。色々なものがやはり流れ着いたまま放置されていて、ゴムで出来た野球ボールや靴、工具、刃物、中にはどこかの警備員名簿までありました。目の前にみえるきれいな海が、今見ているこの光景を生んだという実感は最後まで湧きませんでした。

道路を挟んだ向こう側は、もう使えなくなってしまった線路もありました。線路が全く見えなくなってしまうほど雑草が生えた部分もあり、忘れ去られてしまいそうな、でも前に進もうとするような印象も受けました。線路は前に進むもの、と言うイメージからかもしれません。

次に、初日にお世話になった米崎小学校仮設住宅へ挨拶と昨日のミーティングで印刷した写真をプレゼントとして渡しに行きました。ホントはもっともっとプレゼントしたい写真があったので、いつか持っていかなくてはと思っています。

そして、このスタディーツアーも終わりに近づいてきました。帰りに訪れたのは海でした。印象は「綺麗だ…」その一言でした。本当に青が綺麗な海。クレーンと重機の音が響いていたとしても、まだこんなに綺麗な景色だってある。完全に元通りの町には戻らないけど、被災地の方にとっての故郷を取り戻して欲しいと心から願いました。

そして、最後に行ったのが展望台です。陸前高田市の海までも眺めることが出来ました。やっぱり土の丘だらけで、重機がいっぱいです。でも、大きな希望の架け橋があって海には筏が沢山あって、少しずつだけれど復興の姿も見えていて。この眺めはずっと心に残しておきたいと思いました。

最後に

このスタディーツアーに参加して、私は初めて「被災地に向き合う」「被災地を知る」ことが出来たと思います。東北に行く前は様々な葛藤を抱いていたけれど実際に自分の目で見なきゃ、知らなきゃ、それこそ自分の世界を小さくしてしまうことになるのだと知りました。

私の印象に残ったことは「後悔」と言う大きな感情があったことです。私たちは被災したことで学んだことが多くあるはずです。それから多少の安全意識は高まったかもしれないけれど、本当の意味での危機管理能力はまだ低いと思います。この経験を通じて今の私が出来ることは、自分自身を守るということです。そして、このことを家族や友人に共有することです。いつ起こるか分からない災害の時に被災しない人になる。それがこの被災地でお世話になった全ての方への有難うにつながると思います。

そしてなにより、このツアーによって一緒に参加した友達、沢山の方と出会ったことは特別な思い出です。その中でも、安田さんの凄いエネルギーと貴重なお話を伺えたことは本当に貴重な経験でした。

これから先、陸前高田市を始め3.11の復興が進んでいきます。それは決してすぐの事ではありません。10年、15年、もっとかかるかもしれません。でも私は出来るだけ、この復興していく町に寄り添っていきたいなと思いました。そしてこの経験を別の分野でも活かせるように、もっともっと色んなものを見て知ろうと思いました。

今回のスタディーツアーに参加させて頂き、本当に有難うございました。安田さん、関係者のみなさま、一緒に参加したみんな、また会いましょう!

写真展「高校生が見た陸前高田」の情報はこちら

高校生東北レポート2014

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