「心の片隅に東北の教訓があれば震災を大地震に出来るかもしれない」高校生・東北スタディツアー参加報告 石出修平

2015/11/27石出修平(東京都)

「明日、もしあなたの住んでいる地域で大地震が起こったら、私は生き残れるとはっきり言えますか。その後、自分がどこに避難してどんな生活を送るのか知っていますか。あなたが避難する避難所は本当に安全ですか。そして、その避難所にはどれくらいの備蓄があるのか知っていますか」。

日本では、30年以内に次の大地震が来ると予測されています。関東・東海地方には特に甚大な被害が予想されています。「いつか来るだろう」とは思っていても、冒頭に僕が述べた質問に答えられる人は少ないでしょう。どうしても自分の周りに起こりうる出来事として考えられない、また思いたくない。僕もそのうちの一人でした。

このスタディーツアーで“知ることも防災の一つだ”と学んだので、三日間で僕が経験したことや感じたことをお伝えして、読んだ人の万が一の備えになったらいいな、と思います。

一日目、南三陸町防災庁舎を見学しました。現場をまの当たりにした時、あまりに写真や映像で見てきたものと違うので思わず後ずさりしました。ここで沢山の人が亡くなったのだという事実を今でも痛烈に感じられました。そして、カメラ初心者の自分にこの残酷さを伝えることが出来るのだろうか、と不安を感じました。

防災庁舎の光景があまりにショッキングだったので、次に訪れる仮設住宅はどれほど重たい空気に包まれているのだろうと考えました。しかし、その不安は、米崎小学校仮設住宅の住民の皆さんの温かさですぐに消えました。

子供たちは僕たちが作ったかき氷を美味しそうに頬張ってくれました。お年寄りの方々はベンチに腰掛けて笑顔でたくさんのお話をして下さいました。こうしてみると、どこにでもあるごく普通の風景だなと感じました。会長の佐藤一男さんは「4年半の歳月の間、沢山の辛いことがあったからこそ『幸せのハードル』が下がったんだ」と仰っていました。

50メートル走トラック一本分になってしまった米咲小学校の校庭でテニスをしていた中学生がいました。彼らも同じでしょう。細長いコートに不満げな顔を一切しないで、テニスができるという当たり前のことを楽しんでいる様でした。

市内には災害公営住宅があるのですが、そこでこの米小仮設住宅のような素晴らしいコミュニティを作っていくのが難しいというのが現状です。

二日目、語り部釘小屋さんに陸前高田の街を案内して頂きました。僕はその中で釘子さんの地元愛を感じました。震災前の高田の様子は今の風景からは見受けられないほど、活気のあるものでした。嵩上げ作業が進む故郷を見つめるその目は鋭く、淡々と話す様子はどこか悲しげでした。

ここで僕は自分と置き換えて考えてみました。自分の街の家、学校、商店街があったその土地にベルトコンベアが並び、大量の土が盛られてしまうことを。自分の街がそうならないとは限らないということに恐怖を感じました。釘子さんは「ここはもう自分達の街じゃない」「こんな思いをするのは自分達だけで十分だ」と仰いました。

陸前高田にあった全長2.5キロメートルの砂浜は津波でたった300メートルになってしまいました。海沿いの7万本の松林は、奇跡の一本松と呼ばれた一本を残してすべて流されました。自然の恐ろしさを物語っています。

また、高田で沢山の人や建物が流されたのには過去の街作りの手法に問題がありました。海沿いに大きなバイパスが作られ、周辺には商業施設が立ち並ぶようになります。その結果人々は便利さを求めて海沿いに住むようになったそうです。便利さと安全は同じではなく、便利さの陰にはどんなものが隠れているのかを見極めないといけないのです。そして僕は安全な街作りをすることで助けられる命があるのだということに気付きました。その時から、街作りに興味を抱き、建築や都市環境について学びたいと思うようになりました。

二日目に訪れた中で千寿院の芝崎さんのお話は特に衝撃的でした。千寿院は震災後沢山の無縁仏のお骨を保管し、今でも身元の分からないお骨が供養されています。僕は芝崎さんから、亡くなった方は他県の火葬場も使って全員火葬を行ったと聞いてほっとしました。なぜなら、自分が祖母を亡くした時に、お通夜や火葬には大切な意味があるなと感じたからです。僕はその時間があったからこそ、人が亡くなったのだと感じる事が出来たのです。

また、千寿院は151日間避難所になった場所でもありました。送られてくる配給にも限りがあったので、住職の芝崎さんとその家族は自分達の食事を制限して生活していたそうです。避難所生活では様々な人が集まってきていて、進んで動いてくれる人、何をしたらいいのかわからない人、手を貸してくれない人、悲しみに暮れる人など様々な人がいたそうです。僕自身は被災した時どんな態度がとれるだろうと考えていると、芝崎さんは教えてくれました。「日頃から何事にもケジメをつけられる人は、いざという時もケジメがつけられる人だ」と。この言葉に感銘を受け、ケジメを意識した生活を心がけようと思いました。

三日目、さらに北上して大槌町に入りました。案内してくれた釜石美鈴さんは僕たちとあまり歳も違わないのにとてもわかりやすく話してくれました。大槌は震災前コンパクトシティと呼ばれた町で、住宅が密集していてプロパンガスが主流でした。そのため、津波が押し寄せてきたとき、車のショートなどで発火して燃え広がり海の上で炎が燃えるという異様な事態が起こりました。それは、車のホイールが溶けるほどの火で、町は流されただけでなく火災によっても焼けてしまったそうです。僕はこの震災で火災による大きな被害があったことに衝撃を受けました。

何かにしがみついて流されている間、炎に巻き込まれた人がどんなに苦しかっただろうと想像すると言葉が出ません。また、津波は町役場まで押し寄せて町の機能が止まって、大変苦労されたそうです。行政の中心は安全な場所にあるべきだと思いました。

大槌にある仮設商店街にも行きました。勝手に飲食店ばかりだと思っていたのですが、理髪店などもある活気のある商店街でした。その中の軽食屋さんに入ると、店内は日本全国の人からの応援メッセージや寄贈品が壁全面にびっしり並んでいました。店主のおばあちゃんは自慢げにそのメッセージを紹介してくれました。その後震災前の商店街の写真を見せてくれたり、亡くなった旦那さんのお話をしてくれたりしました。おばあちゃんは涙ぐんでいました。まだ人に残った心の傷は少しも癒えていないなと改めて痛感しました。

震災からもうすぐ5年が経とうとしています。当時高校生だった人は母となり、被災地にも震災を経験していない世代の子供たちがいます。彼らもきっと震災の教訓を受け継ぐでしょう。また、4年半たった今も千寿院芝崎さんはじめ多くの人が震災の影響でPTSDという精神障害を患っています。

震災前多くの人に愛された大槌の吉里吉里浜も護岸工事でなくなる予定です。また、陸前高田など嵩上げをしている地域は地震で地盤が緩くなっています。果たしてこれが正しいのか。現地の人にも分からなくなっています。

では、僕たちに出来ることは何なのでしょうか。それは何より知ること。そして知ったことを教訓にして次に活かすこと。それが被災地にとって一番の救いにもなると教わりました。まずは、自分の周りから始めましょう。地域のコミュニケーションから始められる防災もあります。地域でなくても家族から。はぐれてもどこで会うか決めていれば、家族を信じててんでばらばらに逃げることが出来ます。これが昔から伝わる「津波てんでんこ」という教訓です。

佐藤さんから頂いた言葉で「だれも死ななければそれは震災でなくて大地震だ」というものがありました。災害はいつ・どこで起こるかわかりません。だから毎日怯えて過ごす必要はないけれど、心の片隅に東北の教訓があれば震災を大地震に出来るかもしれないと思います。

最後に東北スタディーツアー関係者の皆さん、貴重な体験を有難う御座いました。

高校生東北レポート2015

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