「相手に本気で寄り添い考えられるようになりたい」高校生・東北スタディツアー参加報告 杉野光

2015/11/27杉野光(北海道)

私は、今まで他人事のように捉えていた震災について自分のことと考えるきっかけとして、そしてメディアの情報でなく自分で見て聞いて被災地の現状を知った上で今の自分にできることは何かを考えたいと思い、今回のスタディツアーに参加しました。

ツアーの最初は、南三陸町の防災庁舎跡を訪れました。建物自体のことは知っていたし、地元の方の中で建物を残すか壊すか意見が割れているという話も知っていました。しかし建物を目の前にして、結局状況の情報しか知らなかったことを実感しました。壁があったであろう折れ曲がった真っ赤な鉄骨、外付け階段の手摺りに、テレビで見た津波の映像以上に津波の凄まじさを現実のものとして感じました。本当に私なんかが写真を撮っていいのかわからなくなり、あまりシャッターを切ることが出来ませんでした。

そしてその後、岩手県陸前高田市の米崎小学校仮設住宅にて、仮設住宅の自治会長であり防災士の佐藤一男さんにお話を伺いました。

佐藤さんが強くおっしゃっていたのは、”来ると言われていた地震に備えていなかった後悔”ということでした。チリ地震津波を知っている世代の方は、海の近くに家なんか建てるもんじゃないとおっしゃられたそうです。また、平成元年の段階で宮城県沖地震は30年以内に起こるとも言われていたそうです。
ですが、仕事をするための便利さを優先させて海の側に家が沢山建ってしまい、大きな被害が出たということでした。便利を捨てろとは言わないが、その場所が安全であるかを考えてほしいとおっしゃってました。

また、「津波てんでんこ」というものも教えてくださいました。津波てんでんこは、津波が来たらとにかくてんでんばらばらに逃げろ、という標語だそうです。最初は、家族のことを考えずとにかく自分は逃げることが出来るのか、と思いました。しかしこの言葉は、普段から津波が来たときにどう動くかを家族や地域で話しておくことで、津波が来ても家族や地域の人は自分で逃げていると信じることが出来る、というものだと聞き、なるほどと思いました。実際に、家族が逃げ遅れていないか確認しに家に戻ってそのまま帰ってくることがなかった方も多数いたそうです。

佐藤さんは、震災で誰も亡くならなかったら東日本大地震で済んだのに、沢山の犠牲者が出たから東日本大震災になった。もしもまた大きな地震が起こっても、大震災にしてはならない。と強くおっしゃってました。

佐藤さんのお話を伺った後は、仮設住宅の皆さんとかき氷を作り、食べながら交流しました。私は主に小学生の子ども達とおしゃべりをしていたのですが、とにかくパワフルで人懐っこくて、純粋に楽しかったですし、とても元気をもらいました。子ども達を住民の方々皆で育てているんだなという雰囲気をとても感じ、すごく良いなと思いましたし、佐藤さんが仮設でのコミュニケーション・信頼関係をとても大切にされていることが伝わってきました。

2日目の最初は、震災語り部の釘子明さんに陸前高田市街地を案内していただきました。今までは津波の高さをただ数字でしか聞いていなく具体的にどれくらいの高さかを全然考えていなかっただけに、津波の到達点が示された道の駅や雇用促進住宅、ガソリンスタンドの看板や、釘子さんに見せていただいた津波の写真に衝撃を受けました。数字だけで受けていた印象よりもはるかに高く感じ、更に津波が100~150km/hの速さ、1000tの力で来たという話には、言葉を失うしかありませんでした。

釘子さんのお話の中で、いくつか質問を受けました。

自分の避難するべき場所に行ったことがあるか?
そこにはどんな備蓄がどの程度あるのか知っているか?
その避難所は本当に安全であるか?

私は何も答えられませんでした。強い思いを持ってスタディツアーに参加したはずだったのに、結局何も考えていなかったんだ、と情けなくなりました。

その後、三陸鉄道南リアス線の盛駅から震災学習列車に乗車しました。震災学習列車では、沿岸部を走行しながら、職員さんが震災前や震災直後の様子を写真と共にお話してくださいました。地震が起こった時に走行中だった車両が緊急停止したトンネルの中を通っているとき、実際にその場所で少し停止してくださいました。すると、車両の前も後ろも真っ暗でした。地震が起きた時、余震もある中でそのトンネルの中を運転手さんと2人の乗客の方が歩いたのだと思うと、信じられないし、運転手さんの咄嗟の判断は何の知識もなく規則だけで動いていたら出来なかったのだろうなと感じました。

また「恋し浜駅」という駅では震災以前から、地元で取れるホタテの貝殻を絵馬にしたカップル向けの観光スポットがあり、見学しました。存在は知っていたのですが、実際見るとカップルのメッセージ以外に、復興へのメッセージが沢山あり、とても暖かい気持ちになりましたし、1回限りでなく継続して東北と携わっていきたいと思うような空間でした。

釜石駅で降車した後は、震災当時避難所になった仙寿院というお寺の芝崎住職にお話を伺いました。仙寿院は、1次避難所であったので、本来は2,3日の開設期間のはずでしたが、実際には151日の間、避難所になりました。電気が全て途絶えてしまったので、ラジオも流れなくなり一切の情報が入って来ず、ようやく色んな発電機のおかげでラジオが聞くことができて状況がわかったのは、震災から4日後のことだったとのことです。その間は、原発事故の事も全く知らず、北へ流れた放射能が多く含まれていたであろう雪を、溶かして飲用水にしていたそうです。ラジオの情報すら寸断されるとまで考えていなかったので、情報が一切入ってこないことの恐ろしさを感じましたし、本来ならば当事者である被災地の方々の元に情報が真っ先に入るべきなのに、それが難しいことにもどかしさを感じました。

また、今できる支援は何かという問いに対して芝崎住職は、人が来てやってくれる支援はいらないとおっしゃってました。いつまでも人がやってくれると、本人がやることがなく自立が出来なくなり引きこもる方が出てくるようで、釜石市内の仮設住宅で自ら命を絶った方が60名ほどいたそうです。そうではなく、震災から得た教訓を学び、伝えて、生かしてほしいとおっしゃってました。

そして、釜石で撮影された津波の映像を見ました。今までは現実味を感じずに見ていたので、あまり辛い気持ちにはならずに見れていましたが、2日間お話を伺い、実際に見た場所に押し寄せて来た波を見て、ようやく現実を見た気がしました。目を背けたくなるような映像でしたが、ちゃんと見なければならないと強く思いました。

大槌町にある宿へ移動し、夕食後に芝崎住職と、釜石の遺体安置所を舞台にした映画「遺体」を鑑賞しました。芝崎住職の役も出てくる映画で、95%が事実だということで、芝崎住職のご家族や、菜津紀さんの旦那さんは開始10分しか見られなかった程にリアルに作られているそうです。とても大変な状況の中でも、「御遺体」の尊厳を保たせようと努める姿には、人間が見失ってはならないものを感じました。そして、体育館いっぱいに並べられた御遺体を見た時、二度とこんな多くの犠牲を出してはならないと強く思いました。

3日目は、大槌町出身で今は県外の大学に通っている、釜石望鈴さんに大槌町を案内していただきました。最初に、旧大槌町役場を訪れました。この場所では、町長を含む数十名の方が命を落としたそうです。建物の外壁に取り付けられていた時計の長針が折れてなくなっている光景が、とても印象的でした。

そして、城山公園へ行き、高台から市街地があった場所を見たり、「希望の灯り」というガス灯を見学しました。「希望の灯り」は、阪神淡路大震災の被災地に灯されている灯りを分けてもらったものです。被災地同士の繋がり、再び震災を起こしてはならないという気持ちを強く感じました。

その後、ひょっこりひょうたん島のモデルとなった蓬莱島や、望鈴さんのご実家もある吉里吉里地区、吉里吉里海岸へ行きました。3日間、震災の爪痕を見てきて、自然が起こす災害の凄まじさを感じましたが、それだけじゃなくて、きれいな海の姿だってあって、両方の側面を持つ自然と共に生きていて、生かされているんだろうな、と改めて感じました。

そして、「福幸きらり商店街」という仮設商店街で、お土産を買いながら地元の方と交流しました。被災地の物を外の人間が買うことで被災地の支援になると考えていたのですが、被災地だからと特別視するのではなく本当に良いもの美味しいものが沢山あり、是非また来たいと、本当に思いました。そして、望鈴さんと別れ、盛岡駅に向かい解散しました。

3日間を通して感じたことは、誰のための支援なのか、何を最優先にすべきなのかをちゃんと考えなければならないと思いました。

陸前高田に有名な奇跡の一本松がありますが、私たちから見たら一本だけ残り復興のシンボルで希望だと思いました。しかし、そこに住んでいた人からしてみれば、元は7万本あった松がたった一本しか残らなかった、津波の凄まじさ、残酷さを象徴しているだけということでした。

この話を聞いて、私も”被災地だから” “かわいそうだから” “やってあげる”という意識がどこかにあったなと感じました。当たり前ですが、被災地の生活と私の札幌での生活とでは全然違うと思います。でもかわいそうだからやってあげるのではなく、一緒に生きていく人間同士として、その人にとってどうする事、どう働きかけることが良いのかを一番最初に考えるべきだと思いましたし、相手に本気で寄り添い考えられるようになりたいと思いました。

そして、防災・減災のために普段から地域でのコミュニケーションや信頼関係を築くことや、たくさんの知識をつけてほしいということを沢山聞きましたが、それは防災や減災の観点以外でも大切なことだと感じました。今は地域の中でもなかなか関わりを持つことが難しいと感じていますが、米崎小学校の仮設住宅のように、皆で子ども達を育てていく社会が必要だと思いましたし、これからの時代を担っていく私たちがそういった社会を築いていかなければならないという使命感を感じました。

スタディツアーに参加して、震災の教訓を沢山学びましたが、それ以上にこれから生きていく上で大切なことを沢山学ぶことが出来たと感じましたし、実際に現地で学んだ私が伝えていかなければならないと思いました。

高校生東北レポート2015

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