「家族や友達と共有することが私の役割」高校生・東北スタディツアー参加報告 光野由佳

2016/11/06光野由佳(広島県)

私は今回、8月4日~6日に第3回東北スタディツアーに参加しました。その中で、自分一人では決して体験できないことや、感じられないことをたくさん経験させていただきました。私にそんな貴重な機会を与えてくださった方々、お話を聞かせていただいた方々への感謝をこめて、3日間のまとめをさせていただきます。

小高駅周辺をまわって

町は確かにそこに存在していました。しかし、そこには人が生きている気配をなかなか感じられず、とても淋しい印象を抱きました。この地区はつい最近放射線の危険性が低くなったとして、避難指示が解除されました。お年寄りたちが故郷に帰りたいと強く願っている一方、若い人たちは子どもの進学や仕事を理由に帰ってきません。

このままでは町が成り立たないというリアルな状況を知り、どうやってこの問題を解決していくのか、ツアーが始まって早々に難しい課題を目の当たりにした気がしました。

上野敬幸さんのお話を聞いて

ツアーで実際に被災された方に震災について聞くのは上野さんが初めてだったので、何をどこまで聞いていいのかわからず、お話を聞いたり質問することに最初は少し戸惑ってしまいました。しかし、上野さんはあの日から今日までのことを丁寧に私たちにお話ししてくださいました。

ある日突然当たり前の環境がすべて失われることの恐ろしさ。そして、その悲しみを乗り越えることがどれだけ大変なのか。上野さんの表情や口調から痛いくらい伝わってきました。

上野さんはとても心が強い方のように感じました。しかし、娘の永吏可ちゃんと息子の倖太郎君が亡くなったのは全て自分の責任だと、震災からずっと自分を責め続けていて、今でもいつでも死んでいいと思っているという話を聞いて衝撃を受けました。

残された人の悲しみがその人を押しつぶしてしまうほど重いという事実は、私の想像をはるかに超えていました。けれど、今は自分ができることをやりきって笑って死のうと思っているという上野さんには、子どもたちの分まで生きようとする強い意志を感じました。

そして、上野さんからはとてもショックな話も聞きました。ある女性が「(福島の被害が)津波だけだったらよかったのに」と言っていたそうです。私は信じられませんでした。津波でどれだけの人が亡くなって、どれだけの人が家族や友人を失った絶望に直面しているのかをどうして想像できないんだろうと怒りさえ湧いてきました。

冷静になって考えてみると、こんなことが起きてしまう原因は無知にあると思いました。家族だけでなく生きる希望さえ津波に奪われたたくさんの遺族の存在を知らないから、こんなにも無責任に被災者の方々を傷つける言葉が生まれてしまうのだと思います。私はここで改めて自分が知るだけではなく、一人でも多くの人に伝えたいと思いました。人間は相手の痛みを知ると、その痛みを分け合えます。そのお手伝いを微力ながら私もしたいと思いました。

最後に私がいつになったら復興が終わると思うかと尋ねると、「今やっているのは復旧という作業だけ。気持ちの部分での復興は難しい」という答えが返ってきました。町が元通りになれば気持ちも元通りになるなんてことはないのです。残された遺族の方々は、今はまだ失ったものが大きすぎるし、生きていく希望をどう見出せばよいのかもわからない。

でも、いつか、家族の死を受け入れることのできる日が来るかもしれない。その日が本当の復興が終わる日だと考える上野さんは、自分でもいつになったらその日が来るのかわからないようでした。でもその日が来ることを信じ、上野さんは必死に前を向いて生きていこうとしているように見えました。

このように考えられるようになるまで長い時間がかかっただろうと想像すると、上野さんの困難はあの日から今までずっと続いていると痛感させられました。

北上の方々のお話を聞いて

震災のお話を聞くまでは、皆さんとても陽気で楽しいおじちゃんやおじいちゃんだと思っていました。しかし、被災体験を聞くと、たった3人だけの生き残りのうちの1人になった、津波に流されて低体温症になり凍死しかけた、自分の生まれ育った町が目の前で破壊されていくのを見て涙が止まらなかったなど、皆さん私の想像をはるかに超えるような極限の状態を切り抜けていらっしゃいました。

今まで見てきた笑顔の裏にこんなにも深い悲しみを抱えていたと気付けなかった自分の浅はかさに嫌気がさしました。でも皆さんは、その悲しみと向き合って乗り越えて、震災から5年がたった今を生きています。自分がもし同じような状況に置かれたら、悲しみと向き合い、乗り越え、未来に向かって歩き出すことができるだろうか。正直、自信はまだありませんでした。

消えることのない地元への愛。残された自分たちが力強く生きていこうという決意。震災前より一段と強くなった地域の方々との絆。そして、当たり前の日々を過ごせる幸せ。皆さんから言葉にせずに伝わってくるこれらのことが、生きる支えになっているのではないのでしょうか。

そして、北上の方々は私たちに「妥協しないで欲しい」と何度も何度も伝えてくださいました。日本は東日本大震災を体験しているのだから、もう想定外という言葉を使ってはいけないのです。備えも避難もここまででよいなんてことはありえない。自分で想定の枠組みを作ってはいけないのです。

「これぐらい避難すればもういいや」と思ってしまった結果失われた尊い2万人もの命を思うと、悔しさがこみ上げてきました。それと同時に自分の生活を思い返してみると、大雨の警報を見ても学校が休みになるぐらいにしか思っていない自分や同級生の姿が浮かびました。自分は災害に対する意識を持っていると少し思っていましたが、そんなのはただの思い込みだったことに気づかされました。

災害と日常生活は離れたところにあるんじゃない。日常生活の中でいつ起きてもおかしくないから災害は恐ろしい。だからこそ自分ができる精一杯の対策をしなければいけない。こんなにも当たり前だけど一番大切なことを私はやっとここで気づくことができました。

釣石神社を見て

巨大な岩が今にも落ちてきそうでした。山の斜面からガツンと飛び出ている姿はとても不思議で、震災にも耐え抜いた強い生命力を感じました。岩の横の階段に「東日本大震災津波到達地点」というのが書かれてあり、そこに立って町を見ると、震災前何があったかわからないようなさら地だけが永遠に続いている気がしました。ここで改めて津波の被害がどれだけ広範囲で強大なものだったのか思い知らされました。

大川小学校を見て

大川小学校はメディアによく取り上げられていたので、避難をすることができず多くの児童が犠牲になってしまった場所だという事実は知っていましたが、実際に行ってみるとテレビの画面を通しては伝わってこなかったものをいくつも感じました。

コンクリートが破壊されていたり、鉄筋がむきだしのままになっていたり、校舎の一部が完全に倒されているのを見たとき一番に感じたのは、ほかでもない恐怖でした。校舎が津波によってこんなにも破壊されているということは、ここにいた児童にも津波が恐ろしい力で襲いかかったということを示します。

そんな当たり前のことを頭では分かっていても、心がなかなか受け入れてくれませんでした。実際の大川小学校を目の前にしたことによって、自分の中でどこか他人事のままにしていたかもしれない犠牲の事実に、ちゃんと向き合う時が来ました。

私は震災当時小学5年生だったので、同世代の子がここで亡くなっていることになります。「亡くなる」というのはあの日、2011年3月11日で人生が終わること、これから無限に広がると思っていた未来がなくなることなのです。

私がこの5年間でたくさんの楽しかったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、感動したことを経験したように、大川小学校に通っていた子どもたちにも喜び、悲しみ、苦しみ、感動にあふれた5年間そして、その先の何十年があったはずなのに。どうして子どもたちが犠牲にならなきゃいけなかったのだろう。悔しさともどかしさが私の心の中に渦を巻きました。

しかし、そこにあるのはがれきだけではありませんでした。ひまわりやゆりなどの花が砕かれたコンクリートの間から生えて、鮮やかな花を咲かせていました。5年前のまま変わっていないがれきと、5年間ずっと時を刻んで、立派な花を咲かせるようになったひまわりが隣り合う風景。

これは私に何かを訴えかけてくるような気がしました。きっと、犠牲になった大川小学校の74人の児童たちが、残された私たちに「前を見て。悲しみに伏せているだけではだめ。ここで起きた悲しみを将来のために生かせるようにすることが大事」と伝えている気がしました。

どんなにあの日を悔やんで、悲しみに打ちひしがれて日々を過ごしても、時間の流れは止まらないし、亡くなった方々が戻ってくるわけでもない。だったら、前を向いて、今自分に何ができるのか考えることが、私たち残された人間のするべきことなんじゃないかと思いました。

移動のバスから被災地を見て

移動のバスからの光景で印象的だったのが工事車両の数です。中でも、陸前高田に入ってからの工事車両の数はけた外れでした。道には10台前後のダンプカーが連なり、道路脇ではショベルカーが何台も動いていました。失ったものを取り戻すために、作業が進んでいることがうれしい反面、私から見ると不思議なこの光景も、地元のからすると当たり前の景色になってしまっていると思うと、複雑な気持ちになりました。

仮設住宅の方々と交流をして

今まで、私の中での仮設住宅というのは、しーんとしていて、人の活気が感じられないところだと思っていました。しかし、実際に人対人としてコミュニケーションをとってみると、それが思い込みだったことにすぐに気づきました。おばあちゃんたちも子どもたちも、みんな私たちが作るかき氷を喜んで食べてくれました。

2日目の後半に入り、被害も課題もたくさん見つめてきて、その問題の多さに圧倒され、自分がしなければいけないことは何かという大きな問いの答えが出ずに悶々としていたところに、はじけるような笑顔で私にかき氷で緑色になったベロを見せてくれた子どもたちは、一筋の光を与えてくれた気がしました。

被災地には悲しみしかないと思ったら大間違いです。たしかに、この仮設住宅にいらっしゃる方々は5年前大きな悲しみを経験しました。当時は悲しみからの立ち上がり方がわからなかった方も多かったでしょう。でも、今はそれぞれ精一杯明日に向かって生きています。

部活を頑張る中学生、夏休みのプールでの水泳に一生懸命取り組む小学生。孫たちの世話をしながら仲良くおしゃべりをするおばあちゃんたち。そして、仮設のみなさんは私たちのような外から来た人間を温かく受け入れてくれました。仮設は優しさであふれています。

防災士・佐藤一男さんの話を聞いて

佐藤さんの第一声「復興の実情はこんなもんです」には衝撃を受けました。被災地の姿をメディアを通してしか知らなかった私から今の被災地を見ると、何もなかったさら地にかさ上げ工事が行われていたり、巨大な防潮堤が作られていたりしていて、どんどん復興が進んでいっているような気がしていました。

しかし、元々この地に住んでいて、故郷を失った地元の方から見たら、5年たった今でも、自分たちの故郷の姿はどこにもなく、そこにあるのは重機と土だけなのです。そんな状況のどこが復興なのでしょう。地元の方の目線でとらえることがいかに重要か感じました。

そして佐藤さんは私たちに防災についてもお話してくださいました。佐藤さんは「どんなに地震のパワーが強くても、一人も犠牲者を出さなければそれは大震災じゃない」とおっしゃいました。どう抗ったって、自然には勝てません。だから、地震を0にすることなど永遠に不可能です。それを理解したうえで、私たちができることはなんなのか考えた結果が防災だと思います。

防災は一人でやっても意味がありません。家族、友達、ご近所を巻き込んで取り組むことで本当の価値が生まれます。私は今まで防災についてしっかり考えて取り組もうと思ったことが何度かありました。しかし、日常の中でいきなり防災について考えようと家族や友達に言うと、どうして?と思われるのではないかと思い、ためらってしまいました。

しかし、佐藤さんのお話を聞いて、防災について私が話を持ち出すことは、私の周りの人々の意識を変えて、その人たちを災害から守ることにつながると知ることができました。だから、これからは積極的に防災について周りに話そうと思いました。

私が話すことで、私以外の人も防災に興味を持ち、どんどん災害に対する意識を高められるようなコミュニティーを作っていきたいです。佐藤さんが望む「東日本大震災と同じことを繰り返さないために考え、行動することを伝えて広める。」ことをできるのは、佐藤さんに直接お話を聞かせていただいた私にしかできない役割だと思いました。

語り部ガイド釘子明さんと陸前高田を回って

釘子さんは最初に震災前の穏やかな町の様子を優しい声でお話してくださいました。これまで、さら地と被災建物ばかり見てきていたので、震災前の陸前高田の写真を見た時にはそれが今見える場所と同じとは思えませんでした。

釘子さんによると昔は海に近いところには家を建てていなかったそうです。しかし、時代の流れによってどんどん海の近くに家が建てられ、その結果ほとんどが流されてしまいました。人間は自然に逆らおうとして大きな損害を被ったのです。それを地元の方々は後悔して、これから自然と共存としていくために、高台に住居を移設しています。

しかし同時に、また自然を人間の力で押さえつけようとしているところもあります。陸前高田の海岸線には行政によって12.5mの防潮堤が作られているのです。これは、はたして地元の方々が本当に求めていることなのか?地元の方々が望まないことをする復興は本当に復興と呼べるのか?疑問が残りました。

その後釘子さんと一緒に新しい災害公営住宅を見に行きました。巨大で真新しい建物は復興への歩みを表している一方、震災前にあったであろう温もりを忘れた、どこか無機質なもののようにも感じました。被災者の方々は仮設住宅を出て普通の暮らしに近づけた気もしますが、ここでは新たな問題としてコミュニティーの欠如が起こりかねません。震災前のようにすべてがうまくいく地域、生活を作るのは難しいと改めて感じました。

そして、釘子さんは私たちに主体的な防災意識を持ってほしいとおっしゃいました。行政が決めたからといって、海抜2mの体育館に行っては自分の命は守れません。命を失ってから、行政のせいにしても意味がありません。大事なのは、「自分の身は自分で守る」と本気で思うことです。一人ひとりがそう考えることで、真に災害に強い街ができます。だから私はその流れを作り出す先導者になりたいと思いました。

大石地区の七夕の山車を見て

翌日が七夕の祭りでしたが、特別に小屋から山車を出していただき、その大きくて鮮やかな姿を見ることができました。山車を作った方々は丁寧に作りを説明してくださったうえ、乗ってみるか?と声をかけてくださいました。人生初の山車の上で横笛と太鼓の演奏を間近で見ると、その迫力に圧倒され、息の合った演奏から地域のつながり、絆を感じることができました。

漁師佐々木学さんと海に出て

今まで、津波の被害を見つめ続けていたので海に対する恐怖心が少しありました。しかし、気持ちのいい海風を受けたり、取れたての牡蠣やホヤを食べたりすると、これが地元のみなさんが愛する海の恩恵なのだとわかりました。また、津波で甚大な被害を受けても、海を愛し続け共存していこうとする地元の方々の強い意志を感じました。

そして、海からは、現在建築されている12.5mの防潮堤と奇跡の一本松を一緒に見ることができました。この防潮堤で町を守れるのか。一本松が私たちに伝えようとしているのは、科学技術をより一層集約することの必要性ではなく、人の意識を変えること、地元の方々だけでなく、この松を見た人全員が災害に対する危機感を抱くことではないのか。最後まで復興の進むべき道を考えることの難しさを痛感しました。

今回このツアーを通して、たくさんの方々にお話を伺ったり、色々な場所にお邪魔させてもらったり、仲間たちと考えを共有させてもらうことができました。

様々な立場からお話しして下さった被災地の方々のお話には大きな一つの共通点がありました。それは、「東日本大震災をこれからへの教訓、教えにしてほしい。そうすることが、亡くなった2万人の方々への一番の供養にもなるし、残された被災者が最も望むことだ」ということです。

被災地の皆さんは東日本大震災自体への関心より、それを知ることによって災害に対する意識を高めたり、毎日の当たり前の生活を大事にしたりすること。そうすることで二度と同じような大きな悲しみを作らないことを望んでいらっしゃいました。

お話を直接聞いた私たちにできることは何か。それは、被災地のみなさんの願いを自分から周りへ伝えることだと思います。私は、ただの高校生です。だから、町や県全体に呼びかけたりすることはできません。でも、家族や友達になら伝えるチャンスはいくらでもあります。

被災地で起きたことは何か、今の被災地の本当の状況はどうなのか。そして、被災者の方々が一番望んでいることは何か。これを伝えられるのは現地で五感を通して被災地を感じた私です。家族や友達と共有することが私の役割だと思います。この役割を果たす子どもが被災地でお世話になったたくさんの方々へのお礼になると思います。

最後になりますが、私が今回このような体験をできたのは現地の方々だけでなく、安田菜津紀さんをはじめ、親切なスタッフのみなさんのおかげです。本当にありがとうございました。

高校生東北レポート2016

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