(C) 藤岡しほり(宮城県)

「4日間の軌跡」高校生・東北スタディツアー参加報告 藤岡しほり

2017/11/03

東日本大震災から6年。被災地は今、どのような状況なのか。被災した方は今、どんな思いで過ごしているのか。みなさんは想像したことがありますか?私は宮城県に住んでいますが、震災による被害をあまり受けませんでした。そして、被災地を自分の目で見たことがありませんでした。このツアーに参加が決まった時、私は自分の中でテーマを決めました。それは “被災地の今を伝える”です。私が見た、被災地の今。それは想像をはるかに超え、厳しい現状に言葉を失ってしまう時もありました。しかし、それでも前を向いて、少しずつ歩き出している方々がいました。現地の方々から頂いたお話と、私の視点から見た被災地の今を伝えたいと思います。

1日目

福島県南相馬市。福島県で震災の被害というと、「原発」と思い浮かべる方が多いと思います。実際に私もそうでした。しかし、福島県内では1600人以上の方が津波により尊い命を亡くされました。

私たちは、南相馬市原町区萱浜(かいばま)にお住いの上野敬幸(うえの・たかゆき)さんにお話を伺いました。上野さんは震災当時から、今に至るまでの歩みを、静かに、けれど、どこか力強く、話してくださいました。萱浜は原発から30㎞圏内にあるため、自衛隊が捜索活動に入ったのは、震災から一カ月以上経過してからで、それまでは自分たちで捜索活動をされていました。10名ほどの地域の方々で40人以上のご遺体を見つけられ、その中には、顔見知りの方も多くいらっしゃいました。やっと自衛隊の捜索が入ったと思えば、捜索は約2週間で打ち切られ、その後は再び、地域の方々だけでの捜索が続く日々。そして震災から数日後、上野さんはご自宅の裏あたりで、当時8歳だった長女・永吏可(えりか)ちゃんを、ご自宅から少し離れたところでお母様の順子(じゅんこ)さんを発見されました。「子供を助けられなかった。今でも俺は最低な親だ」上野さんは、そうはっきりとおっしゃいました。当時3歳だった長男・倖太郎(こうたろう)くんとお父様の喜久蔵(きくぞう)さんは今も見つかっていません。子供を守れなかった後悔や責任、それは私たちには計り知れないものだと思います。でも、その気持ちに寄り添い、このような悲しいことが二度と起きないように後世に伝えていくこと。それが生きている私たちにできることであり、使命であり、上野さんや、ご家族を亡くされたすべての方の望みではないでしょうか。上野さんは、続けておっしゃいました。「生きたいとは思わない。だからと言って、死にたいわけでもない。ただ、この命は倖太郎が繋いでくれた命だと思う。だから、生きているうちはやれることを精一杯やろうと思う」と。私は、上野さんや地域の方々はゆっくりと着実に、前を向いているように感じました。『福興浜団』を立ち上げ、6年経った今も、ボランティアの方と捜索活動を続け、毎年8月には追悼の花火大会を企画し、そこには笑顔の花がたくさん咲いています。まだまだ先は長いかもしれない。震災前のように、すべての人がこの町に帰ってくることは難しいかもしれない。けれど、少しずつ、少しずつ前に進んでいるこの町を、私はずっと見守っていきたいと思います。上野さんは最後に、「東北のことは忘れてもいい。こんな悲しいことなんて忘れていい。ただ、震災から得た教訓だけは忘れないでほしい」とおっしゃいました。教訓、それはどんな災害においても、後世に残していかなければいけないものです。そしてどんな災害においても共通する教訓は、たったひとつ。『命を守る』ということです。命と向き合い、今ある命を守ること。単純なことに思えるかもしれませんが、これが何より大切なことです。そう教えてくださった上野さん、本当にありがとうございました。皆さんも、自分の命、愛する人の命ともう一度、向き合ってみてください。これは被災地から皆さんへのメッセージです。

2日目

宮城県石巻市大川小学校。この小学校では、児童78名中、74名が、校内にいた教員11名中10名が、津波によって命を失いました。むき出しになった黒板、児童が使っていたであろう机。それらは、あの日起きたことを物語っていました。私が最初にシャッターをきったのは、子供たちの絵が描かれている石垣でした。しかしそれは、津波によって一部が破壊されていて、津波の被害を象徴するものでもありました。その石垣には「未来をひらく」と書いてありました。これは大川小学校の校歌のタイトルです。子供たちに待っていたはずの明るい未来、津波はその未来を一瞬にして奪いました。あの日、津波がくる前に、児童が「裏山に逃げようよ!」と、教員に言っていたという証言もあります。もう少し早く判断していれば。そう思うご遺族の深い悲しみはこれからも癒えることはないでしょう。私たちがご遺族の方のためにできることは何でしょうか。それはその深い悲しみに、そっと寄り添うこと。たったそれだけかもしれません。しかし、一度訪れたからには、大川小学校で亡くなった方、そしてそのご遺族の方に対して、決して無関心になってはいけないと思います。愛の反対は憎しみでもなく、妬みでもなく、無関心なことです。ただ訪れた、ただ写真を撮ったで済ませずに、そこから感じたこと、思ったことを周囲に発信し、もう二度と子供たちの未来が災害によって失われることがないように、しっかりと伝えていきたいと思います。起きてしまったことを変えることはできませんが、そこから学ぶことはできます。学ばなくてはいけません。大川小学校は震災遺構として、これからも残っていきます。ぜひ、訪れてみてください。あの日、何が起きたのか、このような被害をなくすにはどうすればいいのか。自分自身で考えるきっかけに、きっとなると思います。

大川小学校を離れ、次に向かったのは南三陸町防災庁舎とさんさん商店街です。さんさん商店街は、子供からおじいちゃんおばあちゃんまで、多くの方でにぎわっていました。最近ではバライティー番組で紹介され、町の復興の様子が全国の方に広まっていて、とてもうれしく思います。それを見て足を運んでいただける方が増えれば、南三陸町のさらなる復興にもつながると思います。私も「置くと、(受験を)パス」するという「オクトパスくん」のお守りを買いました。少し奥に進むと、防災対策庁舎が見えました。防災対策庁舎は、周りのかさ上げ工事が進んでいるため、へこんだ土地に建っているように見えました。この庁舎は震災遺構として残すか、残さないか、様々な意見が交わされました。43人が犠牲となった防災対策庁舎。ご遺族の方が見たら、亡くなった家族を思い出してしまうでしょう。ただでさえ、普段から忘れることなんてないのに。どうして辛い記憶を形として残さなければならないのか。そう思うのは当然だと思います。しかし一方では、震災を後世に伝えるために、形として残すことは必要なことである、という意見もありました。最終的に残すことに決まりましたが、そう決まったのであれば、伝える手段のひとつとしてしっかりと役割を果たしてほしいと思います。最後まで市民の方を助けるために、避難を呼びかけ続けた職員の方々。訪れた際は、犠牲になった方を思い、手を合わせてほしいと思います。

商店街ができ、人が集まり、賑わいを取り戻しつつある南三陸町。しかし、そこには家族、友人を亡くした悲しみを抱えた方が多くいらっしゃいます。そのような方々が笑顔でまたこの町に集い、活気のある町に戻ってほしい、そう願いながら、この地をあとにしました。

二日目の午後、岩手県陸前高田市。私たちは、旧米崎中学校でかき氷を作りながら、地域の方にお話を聞きました。私は、陸前高田市で語り部の活動を行っている釘子明(くぎこ・あきら)さん、菜津紀さんの著書、“それでも、海へ”のじいちゃんこと菅野修一(かんの・しゅういち)さんとその奥様にお話を伺いました。菅野さんはお話の中で「もし、災害が起こったら、その場、その時で自分にできることをやるべきだ」と繰り返しおっしゃいました。得意、不得意は人それぞれだから、自分ができることをやる。一緒に生活する人同士で協力して、役割分担をする。どこか、学校のクラスに似ているな、と思いました。実際の避難所生活を伺うと、それは想像をはるかに超え、衝撃の連続でした。食料が足りない。水が足りない。ひとりひとりのスペースが狭い。問題が山積みの避難所の様子は、あの当時あまり報道されていなかったと思います。現地に行って、お話を聞かなければ、避難所生活がこんなにも大変だなんて、きっと分からないままでした。自分が避難所で生活をすることになったら…そんなことは今まで考えていませんでしたが、いつそういう状況になるか分かりません。避難所での生活を経験した方からの貴重なお話は私の心に深く刻まれました。そして、もうひとつ教えてくださったことがあります。それは、災害が起きて地域の人々が避難所に集まった時は、日頃からの地域のつながりが大切になる、ということです。震災当時、地域でお祭りがあったところは、復興が早かったそうです。年に何度か、みんなが顔を合わせる機会があったり、日ごろから隣近所でのつながりがあれば、いざ災害が起きた時、「あの人は介護の資格を持っているから、年配の方のケアを頼もう。あの人は調理師をしているから調理を担当してもらおう」というような、具体的な避難所での運営計画が立てられます。改めて、自分の地域のつながりを再確認するきっかけになりました。今、菅野さんはお孫さんのしゅっぺくん(修平くん・小学3年生)に漁を教えているそうです。「学校なんて休んでいい。学校では教えられないことを俺が教えるんだ」そう笑顔でおっしゃる姿に、お孫さんへの愛情を感じました。震災を乗り越えた陸前高田の方々の強さ、温かさ、優しさを感じられる時間でした。

その後は、防災士であり、震災当時、米崎小学校の避難所運営を行なっていた佐藤一男(さとう・かずお)さんと娘さんのあかりちゃん、友達のゆあちゃんにお話を聞きました。一男さんは「次の被災者にならないでください」と強くおっしゃいました。災害はいつ起きるか分かりません。明日なのか、10年後なのか、誰も予想できません。だからこそ、今日から備えることが大切なのです。一男さんは「もし、南海トラフ地震が起こったら、流通が止まり、市場機能が止まり、国民全員が被災者になる」と続けました。私はそれだけの危機感を持っていませんでした。6年前、あれだけ大きな揺れを経験したはずなのに。宮城県だから南海トラフ地震は関係ないんじゃないか、そんな甘い考えでした。家具の固定、避難所の確認、水などの備蓄品の確認、日頃からできることはたくさんあります。100%全員が助かることは難しいかもしれません。でも、いざ災害が起こった時、慌てず、何をすべきかを考えられる人は、日頃から、助かる方法を考えている人だけです。自分には関係ない、自分は大丈夫、心のどこかでそう思っている人はいませんか?これから災害に絶対に合わない自信がある人はいないでしょう。またいつか、どこかで、災害は起きます。いつなのか、どこでなのか分からないからこそ、今から備えるのです。「備えてる?」が日常会話になるといいな、その佐藤さんのお言葉。ぜひ、これからみなさんで実現させましょう。

3日目

この日はあいにくの雨でした。しかし、高田町にはたくさんの笑顔と威勢のいいかけ声が飛び交っていました。みんなの中心にあるのは様々な飾りを身にまとった大きな山車。この日はお囃子部隊と曳き手が山車とともに町を練り歩きます。活気にあふれたこの町。しかし、高田町内は津波によって大きな被害を受けました。お祭りに参加しているほとんどの方は津波でご家族を亡くされたり、ご自宅が流されたりと、大きな被害を受けました。うごく七夕の山車もほとんど流され、一時は存続の危機に陥ってしまいました。でも、たくさんの支援と地域の方々が一丸となり、なんとかもとの形を取り戻しました。山車は復活しましたが、高田町は、まだまだ復興の途中です。少し目を外に向けると、広範囲にわたりかさ上げ工事が行われ、更地には重機が目立ちます。“避難所“と大きく書かれた看板を見ると、ここには津波が来たんだ、多くの方が亡くなったんだ、とふと気付かされます。私たちは、川原(かわら)祭り組にお邪魔させていただきました。川原祭り組の皆さんは仲間のことを“かわんちゅ”と呼んでます。私たち高校生も、かわんちゅのひとりとして、うごく七夕祭りに参加しました。山車は11地区ごと趣向をこらし、とても華やかでした。山車には梶棒という、方向転換するための長い棒がついてます。主に男性がその棒を抱え、左右に動かします。動かす人は山車の後ろと前に分かれているので、息を合わせないと山車は動きません。動かしている様子を見ていると、かなり力がいるように思えました。全員で一緒に力を加え、それにより少しずつ、ゆっくりと進む山車。それは、これからのこの町の復興を象徴しているような、そんな気がしました。

午前9時から始まった昼の部は子供たちが主役でした。子供たちの笑顔はその場を明るくしてくれる、不思議なパワーを持ってるなと思いました。私も無意識のうちにカメラを構え、元気な子供たちを写していました。子供といってもお囃子は本格的で、町は笛の美しい音色、太鼓の力強い響きに包まれました。山車から降りてくる子供たちは清々しい表情をしていました。きっとこの町の未来は明るい。子供たちの姿を見て、そう思いました。

夜は、雰囲気がガラッと変わり、山車もライトアップされ、とても幻想的でした。お囃子部隊は女性も男性もさらしを巻き、真剣な表情。一年に一度のこのお祭りへの強い思いがひしひしと伝わってきました。山車が動き始めると、見ている人も一緒に歩き始めます。その中にはお囃子部隊や、梶棒の皆さんのご家族もいらっしゃいました。お父さんを見つめる子供、息子を見つめるおばあさん、いろいろな思いが詰まったお祭りだなと改めて思いました。参加している方の中には、高田町に住んでいない方もいます。東京からたまたま来たという方、数年前、学生ボランティアとして訪れてからずっとこのお祭りに来ているという方、県外に住んでいるが、毎年このお祭りにだけは絶対に参加するという方。地元の方と、そうでない方。そこには全く壁などなく、どこから来た誰であろうが、この日はみんな、かわんちゅのひとりでした。私たちを温かく受け入れてくださった川原祭り組の皆様、楽しい時間をありがとうございました。また来たい、心からそう思っています。「このお祭りは、ご先祖の魂が迷わないように、私たちはここにいるよって示すために行なうお祭りなんだよ」と、始まる前、バスの中で聞いた菜津紀さんの言葉を思い出しました。きっと、ご先祖様は私たちのことを見ていてくれたと思います。そしてこらからも、高田町の皆さんの復興への歩みを見守ってくれるでしょう。私もこの町で出会った皆さんとのご縁を、これからも大切にしていきたいです。

お昼の部と夜の部の間には、陸前高田市で語り部をされている釘子明さんに市内を案内していただきながら、震災当時のお話を聞きました。釘子さんのご自宅は津波で流され、今はかさ上げ工事が進み、ずっと住んできたご自宅はもう、土に埋まってしまいました。今は高台にお住まいですが、それは苦渋の決断でした。もし、家族との思い出のある家が跡形もなく消え、埋まってしまったら。悲しいの一言では言い表せない、何とも言えない気持ちになります。今、お住まいになっているご自宅からは、元あったご自宅が見えます。釘子さんはそれを見た時、「語り部をやらないといけない、きっとこれは俺の使命だ」と思ったそうです。伝えるということへの強い思い。私も釘子さんのお話を必ず伝えなければいけない、そう思いました。私たちはまず、道の駅として栄えていたタピック45という建物に向かいました。このあたりは曲松と呼ばれ、1960年のチリ地震で津波の被害を受けた地域です。その当時小学生だった釘子さんは「この海沿いには家なんて建てるもんじゃない」とおばあさんから聞いていたそうです。しかし、時が進むとともに、家は建ち、町がつくられました。津波で大きな被害があったということが、後世に伝わらなかったから、だからまた同じような被害が生まれてしまいました。「過去に何が起きたかを知ることは命を救うことにつながる」ご自身の経験から、釘子さんはそうおっしゃいました。今、被災地は災害に強い町づくりに取り組んでいます。しかし、完成するには20年から30年はかかるでしょう。それを待つのではなく、避難所の見直しをする、そこが本当に安全なのか、備蓄はどのくらいあるのか確認する。私たちにできることを今から始めましょう。タピック45をあとにし、私たちは釘子さんのご自宅が見えるところへ移動しました。そこは18mの高さがありました。しかし、そこにあるフェンスは大きく曲がっていました。なぜかというと、私たちがいる近くには気仙川という川があり、地震が起きた時、気仙川は増水し、津波と合流し、渦を巻き、波はさらに高くなったのです。18mとは沿岸部の津波最高到達点より高いのです。自分の住む地域の標高や地形をもっと理解して備えていれば、助かった命があるかもしれません。やはり、日頃からの防災意識がいざという時の一番の助けになるのです。ご自身の辛い経験を隠すことなく、ありのままに教えてくださった釘子さん、本当にありがとうございました。「このツアーに参加して、被災地を訪れたからには伝える責任がある」釘子さんがおっしゃったその言葉がずっと心に残っています。必ず、その責任を果たすことを、ここに約束します。過去の悲しみを未来の希望へと変えていきます。

最後に

自分の命、愛する人の命、それらを本気で考え、生きていくうえで大切なことをたくさん学んだ4日間。今、これを書いているときも被災地で出会った方々の顔、声、仕草のひとつひとつが頭に浮かんできます。被災地はまだ悲しみに包まれていました。しかし、私はその中に希望の光が差し込んでいたのを自分の目でしっかりと見ました。復興は確かに、少しずつ進んでいます。これからの道のりは長くても、きっと大丈夫。無責任な発言かもしれませんが、私が出会った方々を見て、そう思いました。

“伝える”ということは時には大きなリスクを伴います。しかし、私は諦めずに、これからも自分の視点から自分なりに伝えていきたいと思います。私なんかでは伝えられないこともたくさんある。でも、私にしか伝えられないこともきっとある。自分の経験を自分のものだけにせず、家族、友達と共有し、一人でも多くの人にこの経験を届けます。

安田菜津紀さん、オリンパスのスタッフの方々、現地でお話を頂いた方々、川原祭り組のみなさん。このスタディツアーにご協力をいただいたすべての方に感謝致します。本当にありがとうございました。

高校生東北レポート2017

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