(C) 川崎弥矢(埼玉県)

「その命を守るために」高校生・東北スタディツアー参加報告 川崎弥矢

2017/11/03

何よりも「命」を大切にする。命が最も大事なものであるということは、小さい頃から聞いていました。しかし、こんなにも強く実感したのは、このスタディツアーが初めてでした。その命を守るために、教訓はなくてはならないものであることを感じました。

この東北スタディツアーは原町シーサイドパークを訪れるところから始まりました。バスから降りて歩いて海の近くまで行ったときに、目の前に真っ白な大きな壁が立ちはだかりました。それは防波堤で、その白さから新しいものであることが分かりました。海が見える部分をすっかり覆うように建てられていて、サーファーの方が登っていなければ、そこに海があることは分からないくらいでした。そこで久しぶりにこの海に来たというご夫婦に出会い、お話を聴かせていただきました。街は0.1μSvの差で分断され、6年経ってやっとこの海に戻ってくることができたとおっしゃっていました。戻ってくることができなかった理由には放射線などの物理的なものだけではなく、精神的なものもあったかと思います。当時は誰も経験したことがない状況のため、手探りの毎日が続いたそうです。発災から約1ヶ月後に放射線量の数値が危ないと言われたこと、お孫さんがPTSDを発症したことなど、ただの通りすがりの私たちに話してくださったことの中には思い出したくもないことも含まれていたと思います。それだけ伝えたいという思いが強いのだと思いました。

移動中のバスの中からは、放射性廃棄物の詰まったビニール袋が積み上げられて黒い丘のようになった場所が見えました。想像していたよりも高く積みあがっていました。これまでテレビなどのメディアからしか見たことがなく、実際に見ることの大切さを実感しました。バスの通った広い道の横に伸びる住宅街の道を見てみると、広い道とは違い、生活の気配が感じられませんでした。長い立ち入り禁止期間の影響を恐ろしく感じました。

次に、南相馬市萱浜の上野さんにお話を伺いました。南相馬市萱浜は事故のあった原子力発電所から20kmちょっとの地域です。上野さんには津波が来る感覚はなかったそうです。子供の顔を見られないまま津波が街を襲い、3日後には福島第一原子力発電所3号機で建屋の爆発事故が発生しました。福島に対する世間のイメージは、後者の原発です。ツアーに参加するまでの私のイメージも同じようなものでした。しかし、津波の被害も凄まじいものでした。捜索では、あまり自衛隊の力を借りることができず、ほぼ自分たちの力で活動したそうです。津波では多くの方が流されました。その海の中の捜索は難航したそうです。シーサイドパークを訪れたときには、海には良い波が見られるくらいにしか思っていませんでした。しかし、波が強いということは、捜索しにくいということなのです。上野さんは家族に対して、とても後悔していました。家族が流されたことを知らずに他の人を捜索していたこと、奥さんのお腹の中にいた子供に目を向けられなかったことなどの後悔を今も抱えています。上野さんの吸う煙草は、弔いの煙を上げているように見えました。自分の命、そして家族の命を守るために、どうすればいいかを考え、教訓を活かさなければいけないと思います。

2日目の最初に訪れた大川小学校では、蜘蛛の巣が自分と校舎を隔てる囲いにかかっていて、年月の経過を感じました。その近くでは花が綺麗に咲いており、バレーボールのネットが見られるなど、ここが、あの日までは普通の学校であった痕跡があちらこちらに見えました。慰霊碑は撮影禁止となっていました。私たちは学ばなければいけませんが、経験していない者には立ち入ってはいけない領域もあることを感じました。それでも、同い年の子の名前が冷たい石に記されているのを見て、志半ばで夢を諦めなくてはならなかった同級生の命を無駄にしないために、大人ではなく、高校生という立場の私が伝えなくてはいけないと思いました。

移動途中で訪れた防災対策庁舎は、2031年まで一時保存されることが決まっています。南三陸さんさん商店街から見下ろすと、これから何かが建てられる骨組みのようにも見えました。あの鉄筋の上に物理的に何かを積み重ねることはできないとしても、教訓は積み重ねていかなくてはいけないと思いました。震災当時の状況をそのまま残すことはできませんが、私なりに教訓を残していくお手伝いをしていきます。南三陸さんさん商店街は、木材が多く使われていて優しい雰囲気で、名前のとおり、太陽のように、とてもキラキラしていました。

陸前高田グローバルキャンパスでは、近隣の方をお招きして、かき氷を作りながら、お話を聴きました。学校としては利用できなくなってしまっても、建物を利用することで、ふとした瞬間に教訓を思い出せるのではないかと思いました。同席させていただいたおばあちゃんからは、話を聴けば聴くほど、辛い体験が言葉になって出てきましたが、とても前向きな方で、これからを前向きに考えるきっかけをくださいました。2人のおばあちゃんからお話を聴かせていただき、新しいコミュニティーが元の街に戻る障害ともなっていますが、明るく生きる助けにもなっていると知り、コミュニティーの担う役割の大きさを感じました。

グローバルキャンパス内では、参加者全員で2人の中学生にもお話を聴きました。それまで私は海が遠い地域に住んでいるために津波に関する訓練をしていないのかと思っていましたが、海が比較的近い地域でも行われていなかったことに驚きました。これから10年、20年経った後に、訓練をしない社会に戻らないように、東日本大震災の教訓を忘れてはいけないと思います。最後に2人が伝えてくれた、遊び気分になってしまう小さい子どもにイライラしないで笑顔で対応することが、しっかりと判断することが、今の私にできるだろうか、考えさせられました。私だったら小学生のときに経験したことを、中学生のときにこんなに話せなかっただろうと思います。震災が2人を急速に大人へと成長させたのかもしれません。

続いて、お話を聴かせていただいた中学生の1人のお父さんでもある、防災士の佐藤一男さんから、非常時に何をすべきで、何をしてはいけないのかを教えていただきました。「大変な思いをしたのを知っているのに、なぜ自分事として考えられないのか」という言葉がとても心に残りました。このツアーが実際に被災地に訪れるのは初めてだったとはいえ、テレビなどで知っていたのに、なぜ動かなかったのだろうと後悔しました。自分の行動力のなさが大きな原因だと思いますが、周りの関心のなさも行動を起こしたい人の足かせになってしまっているのではないかと思いました。伝えるとともに、教訓への関心の高さを底上げしなくては、悲劇がくり返されてしまうと、改めてツアー後に周りを見渡してみて感じました。教訓の本質的な理解が進んでいないと、逃げる意思があったのに助からなかったということが繰り返されてしまうと思います。日常会話の中で防災・減災の話題が出る社会にするために、日常的に伝えていく必要があると感じました。

ツアー3日目は、震災の語り部をされている釘子さんに、震災の被害が見られる場所の案内とお話をしていただきました。津波はおよそ10tトラック100台分の力で迫り、川を上って、さらに大きな波へと変化したそうです。その波になぎ倒されたという高台にある金属フェンスを見て、津波の高さと強さを実感しました。案内していただいた場所は、1960年のチリ津波の浸水区域でした。そこに住むべきなのか、釘子さんのおっしゃっていた「本質を見抜く」という大切さを、強く感じました。資料を読んで分かったつもりになっていても、現地に行って知ることの方が何倍も大きく、現地を知らずに語ることはできないし、してはいけないと思いました。釘子さんのお話の中で日本人のマナーについて驚きました。震災時の日本について、支援物資の配給でも1列に並び、礼儀正しかったというイメージがありました。しかし、泥棒が人のいなくなった家から物を盗むなど、世界で起きていることは日本でも起きていたそうです。気を抜いてはいけないとともに、支援する側として迷惑をかけないように、自分にできる範囲内で支援活動をしなくてはならないと思いました。

最後の「うごく七夕祭り」では川原(かわら)祭組の方々にお世話になりました。どの祭組にも綺麗な手作りの装飾が見られ、夜には美しく輝いていました。その山車の周りを見ると、津波からの避難路を示す看板や、災害公営住宅が見え、ここが東日本大震災の被災地であることを感じさせました。これまでのツアーの行程で厳しい話や重い話も聴いて、東北沿岸について暗いイメージも持っていました。しかし、この祭りを見て、参加して、皆さんの輝いた表情や姿を撮らせていただいて、この街を単に被災地という一言でまとめてはいけないことに気づきました。どの街にも様々な人がいて、様々な風景があるように、今回訪れた街にも様々な表情があり、もっと知りたいと思うことばかりでした。また、怖いという感情は人を遠ざけてしまうので、受け取り側それぞれの心が近づくような伝え方をしていきたいと思いました。

私の住んでいる埼玉県は海から遠いですが、津波が来ないからといって、津波から得た教訓が生かせないわけではありません。また、言葉では分かっていましたが、災害≠津波ということを実感しました。一見、自分の住んでいる地域とは関係のなさそうな災害にも目を向けなければいけません。そして、また東北の暖かさに触れたいと強く思いました。

高校生東北レポート2017

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