(C) 鰐渕麻梨子(福井県)

「ありがとう。と伝えたい」高校生・東北スタディツアー参加報告 鰐渕麻梨子

2017/11/03

私の東北スタディツアーは逃げから始まった。何を撮ったらいいかわからない。それは3年前の経験からだった。

3年前の経験

ここで少し3年前の経験についてお話させていただきたいと思う。3年前、私は、「スマイルとうほくプロジェクト」というプロジェクトで初めて被災地、岩手県釜石市、大槌町を訪問させていただいた。そのプロジェクトに参加するまで、私は東日本大震災、被災地について深く考えたことがなく、思い出すのも年に1回、3月11日だけといっていいぐらいのものだった。つまり、風化していくことに何も危機感を感じていない人の1人であった。

大槌町は、当時、盛土の真っ最中だった。あたり一面何もなく、トラックがひたすら土を運んでいた。3年経っても人が住める状態ではなく、復興の初期段階という印象を受けた。旧大槌町役場を訪れた時、津波の到達時刻とほぼ同時刻のまま止まった時計の針。ご遺体が見つかった印。ほんの3年前まで町の行政を担ってたとは思えない建物。言葉を失った。ここで、人が死んだ。と言う現実を目の当たりにした。また、人が津波に流される映像を見た。後ろから迫ってくる黒く濁った津波。しかし、それに気づいていないのか、気がおかしくなっているのか、ゆったりと煙草をふかし歩く男性。本当に恐ろしかった。なんで走らないの?助けたい。もどかしい。そんな思いが私の心にあった。私はこの映像を見たことで波、波の音が怖くなった。ひどい時は震えが止まらなくなる。

1日目 迷走

1日目、福島県南相馬市、浪江町を訪問させていただいた時、海に立ち寄る機会があった。サーフィンをするのに良いと言われるぐらい波が大きい場所で、もちろん波の音も大きく、そのことは私を3年前の記憶の恐怖へと送り込んだ。3年前に見た、あの津波の映像が頭の中をぐるぐると駆け巡り、涙が溢れてくるのをぐっと堪えていた。その恐怖から被災地を直視できなくなり、被災地と関係のないことを考えて気を紛らわせようと逃げにはしってしまった。また、被災地の光景は3年前より復興していて、何を撮れば良いかわからなかった。すごく戸惑った。全然シャッターがきれなくて、伝えたいものもわからなくて、心がずっとモヤモヤしていた。それは、震災から6年5ヶ月がたった今、私たちが目を向けるべきなのは被災地の風景ではなく、被災者の心であるからだった。被災者の心を取り残し、復興していく、被災地。被災者の心は未だ大きな傷を負ったままだ。

南相馬市で取材させていただいた、上野さん。娘さん、息子さん、そしてご両親を亡くされている。取材中、しきりに煙草を吸われていた。私は煙草が苦手なので、なぜ上野さんはこんなに煙草を吸うのか、お話を聞きながら考えていた。きっとそれは、煙草を吸うことで、辛い気持ち、悲しい気持ちを紛らわせたいという気持ちがそうさせるのだと思った。ミーティングでそう思ったことを共有した時、安田さんに「年々本数が増えている。でも、今日は少ない方だった。」と言われ、被災者の心の傷の大きさ、被災地の復興に反比例し大きくなっていく傷、また、私たちの聞き方が上野さんをさらに苦しめていなくて良かったという気持ちを感じた。また、上野さんのお話の中で、娘さん、息子さんを助けられなかったことを非常に後悔している節がいくつも見受けられた。息子さんが見つかったら、死のうと思っていること、でも、息子さんは見つからない。それは、息子さんが上野さんを生かしてくれたのだということを上野さんはおっしゃっていた。また、上野さんは「東北を忘れないでほしいっていう気持ちはない。忘れてもいいと思っている。だけど、教訓だけは忘れないでほしい。」と言っていた。私はこの言葉に衝撃を受けた。私は3年前から教訓はもちろん、東北を忘れないでいたいと思っていた。だが、上野さんの言葉の意味がすごくよく理解できた。東日本大震災の教訓が他の災害に活かされることがなければ、失われた2万人の命が無駄になったように感じ、何よりも辛いのだと。だからこそまずは教訓を忘れないでほしいということなのではないかと私は解釈した。私は今回の研修に参加する5ヶ月前、友達と風化について話していた。その友達は私に「風化して、教訓が生かされないことは死者への冒涜だと思う。」と言った。私はその言葉に心がゾワゾワとした。その通りだと思った。その友達は被災地に行ったことがない。しかし、そのように思ってくれていることすごく嬉しかった。同時にそんな人が増えてほしい。そう思った。

2日目 解決

2日目、宿泊していた追分温泉で起床した時、ふと眺めた窓から見える外の風景が写真を撮りたいという思いを起こしてくれた。その瞬間から1日目とは取材する思いが違った。しっかり目の前の光景を見つめられるようになった。撮りたいものがだんだんはっきりしてきていた。1日目の悩み、苦しみ、迷いが解決された気がした。宮城県石巻市にある大川小学校を訪問させていただいた。下を見ながら歩いているとコップか花瓶か何かのガラスの破片を見つけた。他に何かないかなとずっとしゃがみながら地面を見ていた。そうすると1つの錆びたスプーンが目に飛び込んできた。これだ。と思った。しばらくそのスプーンを見つめ、カメラを構えた。撮る角度とかズームの長さを変えて夢中になってシャッターをきった。納得のいく1枚が撮れた後もしばらくスプーンを眺めていた。このスプーンを使っていた人を想像していた。私の想像の中でこのスプーンを使っていたのは小さな女の子だった。プリンを満面の笑みで頬張っている様子が浮かんだ。今の目の前の景色からは、人が住んでいたと想像するのは難しいけど、でも、このスプーンを見たとき、本当にここで人は生きてたんだなと思った。命を感じた。大川小学校から出発するためバスに乗る前、私は大川小学校に向けて手を合わせた。いろいろなことを教えてくれた場所だったから、ありがとう。って言いたかった。心の中で何度も何度も呟いた。

午後は岩手県陸前高田市に移動し、地元の方々にかき氷を振る舞わせていただいた。かき氷を一緒に食べながら、いろんな話が聞けた。私がずっと疑問だったこと。地震、震災ですごく辛い思いをしたはずなのにどうして、そんな辛い思いをしたこの場所に残っているのか。この疑問を1人の男性に質問してみた。帰ってきた答えは、「両親のお墓があるから。なかったらもうここには住んでいない。」すごく驚いた。お墓があるからという答えは想像すらしていなかった。予想外すぎて、「お墓があるから?」と聞き返してしまった。本当はこの質問を多くの人にしたかったけどこの男性にしか聞けなかった。また、機会があれば聞きたいと思う。その後、佐藤一男(さとう・かずお)さんから話を伺った中で1番心に残ったことがある。それは「自分と自分の大切な人は自分で守る」というお言葉だった。それは1日目に取材した上野さんの家族を救えなかった後悔と繋がると思った。つまり、被災者が感じている1番重要なことなんだと思った。また、一男さんの娘さんのあかりちゃんからも話を伺った。判断力が大切だと教えてくれた。一男さんの話を聞いていて、判断力を身につけるためには知識を得ることが大切だと思った。例えば、自分の家の海抜を知ること。私は3年前に被災地を訪問しているにもかかわらず知らなかった。本当に恥ずかしいことだと思った。だから、すぐに調べた。予想は100mぐらい。実際は50mだった。あまりの低さにびっくりした。私の住んでいるところは海に近くない。なので津波の被害はどちらかというと受けにくいかもしれない。でも、もし大雨が降ったら、川にも近く、山にも近いため、川が氾濫したら危険だし、土砂崩れも怖い。だからこそ、災害が起こっていない今のうちから備えなければならないんだなと思った。備えることで防げることもある。私が今からできることもたくさんあると思った。また、私が一男さんから話を聞いて1番驚いたことがある。それは、震災を自分事にしてもらうために必要なのはトラウマを残すことじゃないということだった。え?なんで?という疑問がわいた。それは3年前、私は津波の映像がトラウマになったことで震災が自分事として深く刻まれたからだった。え?なんで?という疑問はのちに解決されることとなる。

3日目 変化

3日目、午前中、陸前高田市のお祭り、うごく七夕祭り(昼の部)に参加させていただいた。川原(かわら)祭組の皆さんにお世話になった。あいにくの雨だった。しかし、川原祭組の皆さん、他の祭組の皆さんもすごく活気に溢れていた。だから、雨なんて気にならなかった。完成した山車を見て言葉が出なかった。ただただすごいと感動しているだけだった。こんな山車見たことない。そう思った。この祭りにかける並ならぬ思いを感じた。川原祭組の皆さんの表情はすごく晴れやかで輝いていた。すごく楽しそうだった。川原祭組の方が山車を動かす時に見せる真剣な表情もまた魅力的だった。また、大町(おおまち)組の山車を押すのを助けるためには川原祭組の皆さんが走って、大町組の山車の元へ向かっていたのはすごく印象的だった。助け合い。その素敵さを感じた。震災もこのように助け合って乗り越えてきたんだろうなとふと思った。川原祭組も山車を引っ張って今年の4月に開業したばかりの商業施設アバッセの周りを練り歩いた。梶棒を持つ人の中にヒッチハイクで東京から来た人もいた。まるで川原祭組の人のようにすごく馴染んでいた。初めて来た人でも優しく温かく受け入れてくれる。そんな川原祭組の良さをすごく感じた。

お昼ご飯を黒崎仙峡温泉で食べた後、近くの海に行った。そこでご遺体発見の印を見つけた。ここで人が亡くなっていた、ということが、今回の研修で初めて実感できた瞬間だった。大川小学校でも印を探した。でもなかった。心の中で手を合わせてからその印の写真を撮らせていただいた。その日の海は心地良いものではなかったけど、震えるほど怖くはなかった。波が穏やかだったからかもしれない。

その後、釘子明(くぎこ・あきら)さんから震災のお話を伺った。14.5mもの津波が来たことにすごく驚いた。私の身長の約9.5倍もの津波だ。1000tもの力がかかる。このお話は旧「道の駅」高田松原の前で伺った。旧「道の駅」高田松原は14.5mよりも高いため屋上とかで生き残った人がいるのではないかという疑問が浮かんだ。質問してみた。3人生き残った。なんで注目されないと思う?と言われた。わからなくて、言葉が出なかった。3人を助けようとして亡くなった方が多くいるからだと言われた。3人は今どんな思いで生きているのだろうかと思った。罪悪感を感じているのかな?いろんな思いを推測できるが、本当の思いはわからない。釘子さんのお話の中に震災後1番最初に来たのは泥棒だったという話があった。3年前も泥棒の存在は聞いていた。夜になると明かりがつき盗みを働く。その労力をどうして、生き埋めになっている人を探したり、ご遺体を捜索するのに使おうと思わないのか。なんでそんな行為をするのか考えても答えが出なかった。また、釘子さんにある質問を投げかけられた。まず始めは自分が逃げるべき避難所を知っているか、だった。全員が知っていた。次に避難所が安全かどうか、だった。知らなかった。最後にその避難所に備蓄の有無を聞かれた。また、知らなかった。私は3年前に被災地を訪れて避難所の安全性を知るべきだということを学んだはずなのに、自分の避難所の安全性を調べていなかった。すごく恥ずかしいことだと思った。情けなかった。私が釘子さんのお話で衝撃を受けたことが1つある。それは、津波のおかげで海が活性化したこと。ヘドロとかの影響だそうだ。津波って負だけのイメージだったけれど、僅かながら海に恩恵をもたらしてくれていたんだと驚いた。津波の見方が少しだけ変わった。

その後、再びうごく七夕祭り(夜の部)へ参加した。昼の部とは違った、さらに強くなった活気、熱気。お祭りムードがさらに強くなっていた。お囃子隊がさらしを巻き、はっぴを着る人もいた。祭りにかける情熱がひしひしと伝わって来た。昼の部よりも人が増えていた。山車も少しだけ昼の部とは違っていた。日が暮れていくにつれ、さらに盛り上がりを見せていた。また、昼の部、夜の部を通して、久々に再会したのか、おお!と手を振り、駆け寄り、話してる姿も印象的だった。私は山車の美しさと、お囃子の素敵な音などお祭りの全てに見惚れていた。羨ましくもあった。こんな素敵なお祭り初めて。めちゃくちゃ楽しかった。ずっと笑顔でいられた。また来たいと思った。絶対来ると誓った。このことは2日目の一男さんの話を受けて疑問に思った「震災を自分事にしてもらうために必要なのはトラウマを残すことじゃないということ」への答えだった。トラウマになるものからは、悲劇は伝わるけど「また来たい」という思いはあまり湧かない。負のイメージが強くなってしまう。だが、お祭りのような楽しいものがあると知り、本当に楽しむことでまた来たいと強く思い、良い印象が残る。復興するためにはまた来たいと思える街を作ることの方がすごく大切なんだと思った。

4日目

4日目、ちょうどその頃、地元福井は台風が接近し、大雨で避難勧告や避難指示が出ていた。すごく地元を思いながら迎えた4日目だった。安田さんの旦那さんの慧さんに話を聞くチャンスがあり、気になっていたことを聞いてみた。気になっていたこととは、慧さんが考える陸前高田の一本松への想いだった。安田さんは、その松を初めて見たとき瞬時に力が湧き、夢中でシャッターをきった。一本松の写真は新聞に掲載され、「希望の松」というタイトルがつけられた。真っ先に津波に首まで浸かりながらも、生き残った慧さんのお父さんにその記事を見せに行った。お父さんは「なんでこんなに海の近くに寄ったんだ!」と少し語気を強めていい、「あなたのように、震災以前の7万本の松と一緒に暮らしてこなかった人たちにとっては、これは希望に見えるかもしれないよ。だけど僕たちのようにここで生活してきた人たちにとっては、あの松林が1本”しか”残らなかったんだって、波の威力の象徴みたいに見えるんだよ」と続けた。このお話は3年前にもお聞きし、すごく印象的だった。今回もそのお話をされていて、また、安田さんの本の『写真で伝える仕事 世界の子どもたちと向き合って』にも記されており、それだけ安田さんにとって大切な、印象深いことなんだなと思った。だからこそ、陸前高田の人がどのような想いを一本松に持っているのか、本当は多くの人に聞きたかった。でも、なかなか聞けなくて慧さんに質問させていただいた。慧さんは、僕も津波の被害の大きさが真っ先に頭に浮かぶ、と言っていた。ここら辺の人の多くが一本松に良い想いを持っていないのは事実だ、と続けた。質問をした場所はちょうど物産館で、お土産を買ったあとだった。お土産を買っている時、「奇跡の一本松」と書かれたお土産が多いことに何かすごくモヤモヤする気持ちになった。陸前高田の人はこれを見てどう思うのかなと思った。だから、慧さんに尋ねた。慧さんは、陸前高田の人は陸前高田のお土産買わないからそんなに気にしてはいないんじゃないかな、と言った。その後に、でも、一本松のおかげで陸前高田は知名度の高い被災地になった、こんなに知名度の高い被災地は他にそんなにない、知名度が高いおかげで多くの人が訪れてくれる、陸前高田が復興できなければ他の街も復興はできないと思う、と続けた。

まとめ

この4日間で私は何よりすごく成長できた。逃げてばっかりだった1日目、しかし、2日目からはしっかり被災地に向い合い、被災者に向き合い、自分に向き合えた。お話をさせていただいた方々から「麻梨子さんはいつもとても元気で笑顔で、でも、ふとした時にすごく真摯な顔をしてて、きっと色々感じて吸収してるんだろうな~と見てました」「他人事から自分事に、年一回だった”東北”が、かけがえのない”東北”になったんだよね。」などと言ってもらえて嬉しかった。その通りだった。今回、さらにもっと私にとって東北は、かけがえのない、何にも代えがたい場所となった。心から好きだと思える、大好きな場所となった。そして、また来たいと。いつか、住めたらいいなとまで思えた。東北は、被災地は、被災者は、私をすごく強くしてくれた。たくさんの経験をくださった。そして10人の高校生とのご縁、安田さんとのご縁、OLYMPUSのスタッフの方々とのご縁、山池さんとのご縁、地元の方々とのご縁をくださった。東北が縁を繋ぎ、広げてくれた。まずは、いろいろな学びをくださり、素敵なご縁をくださり、私を成長させてくださった、被災地、被災者の方々にありがとう。と伝えたい。

最後になりましたが、被災地訪れ、被災者の声を聞く機会を与えてくださった、安田さん、OLYMPUSの方々、山池さん本当にありがとうございました。私にとってかけがえのない経験となり、何にも変えられない財産となりました。この経験は一生の宝物です。ありがとうございました。

高校生東北レポート2017

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