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「『復興』の意味と向き合い続けた四日間」東北スタディツアー参加報告 大賀倭

2018/11/01

鳥のさえずり、人の足音、雨水が屋根から流れ落ちる音だけが周りに響く。
降り続ける雨は、シャッターを切っていると気にならなくなった。
うっそうとした空気。雨の独特のにおい。
その場所だけ時が止まったようだった。
ひまわりやコスモスが咲く校庭に、子どもの声はない。
あの日訪れた大川小学校を、東北の景色を、僕は一生忘れられないだろう。

「あなたにとって、『復興』とはどういうものですか。」

これは僕がツアーに行く前に、今回出会った方々に必ず尋ねようと決めた言葉だ。

「復興」という言葉の意味は、地方の違い、被害の違い、災害の違いで一人一人大きく違う。過去三回訪れた東北や、昨年の九州北部豪雨の被災地である福岡県朝倉市、台風の大雨で被害が出た大分県津久見市でもボランティアをしてきた経験から、僕はそのことを実感してきた。

三年前の中学二年生の夏。僕が初めて東北・宮城県亘理町で復興支援ボランティアをした時、三戸部さんという津波で家を失ったおじいちゃんに出会った。
三戸部さんは「海岸に立って、海と向き合うこと、が乗り越えたい目標なんだ。」と教えてくれた。「心の復興は何時なんだろう。墓場まで持って行くかもしれない。」と。その目標が、三戸部さんの「復興」なのだろうと当時の僕は受け止めた。

今回の東北スタディツアーで会う方々にとっての「復興」は、どういうものなのだろう。自分の知らない「復興」があるかもしれない。そう思ったことがあの質問をしようと決めたきっかけだった。
 

いざツアーが始まると、久しぶりに東北に来たという喜びや懐かしさとともに、自分はこれから上野さんをはじめ、出会う方々にしっかり質問できるだろうか、初めて会った仲間たちとうまくできるだろうか。いろいろなことを考えながら、バスに乗った。
南相馬市や浪江町に入ると、除染土が入っている黒いビニール袋置場をよく目にするようになる。町の中には、放射線量を測る機械がところどころ置かれていた。
「ここの海は綺麗だから是非見てください。普段はね。」と安田さんが言った。「普段はね」という言葉が心に引っ掛かった。

福島県南相馬市に住む、上野敬幸さん。
笑顔がとても印象的だった上野さんは、娘さんとお母さんを津波で亡くし、今でも、息子さんとお父さんの行方が分かっていない。
震災の経験を話すことは上野さんにとって苦しいことなのではないのだろうか。あの質問をしてもいいのだろうか。そうずっと考えていた。

「東北のことは忘れてもいい。それでもいいから、今ある家族、友達、自分の命を大切にしてほしい。もう、自分のような辛い経験を誰にもしてほしくない。」
「大きな災害が起こる度に、誰かが亡くなる。悲しむ人が増える。どうして逃げなかったんだろう、と思うと悔しい。」

上野さんの言葉が一つ一つ、僕の心に重く降り積もっていった。

そんな中、僕は思い切って「上野さんにとっての復興とは、どういうものですか。」と聞いた。少しの静寂の後、僕の目を見てこう答えてくれた。
「家族の死を自分の中で受け入れることができた時が復興だと思う。だからいつ来るか分からないし、来るのかどうかも分からない。」
今まで家族を亡くされた方から話を聞いたことがなかった僕にとって、深く考えさせられる言葉だった。両親や何よりも大切だった子どもを津波で亡くした。その悲しみは想像できないほど深く、大きい。上野さんの笑顔は、「笑顔」という言葉だけでは言い表せない。上野さんにカメラを向けることは最後までできなかった。
「復興」は来ないのかもしれない。初めてそう考えた。上野さんの話は、今でも僕の中で整理ができていない。

雨の中の大川小学校。子どもたちの声が響くことはない校庭に、ひまわりがうつむきながら咲いていた。雨が降っているのは何か意味があるのかもしれない。そう思った僕は大川小学校を包み込むうっそうとした雰囲気を写真で伝えようと、夢中でシャッターを切った。伝えることがカメラを向ける原動力なのだと気付いた。

翌朝。どんよりとした空の下、陸前高田へ。
震災当時避難所を取りまとめ、今でも仮設住宅に暮らしている、佐藤一男さんと、娘さんのあかりさん。あかりさんのお友達にもお話を聞くことができた。
僕と同じ中高生が考える「復興」はどういうものなのか。いつか聞いてみたいと思っていた。

「同じような思いをしてほしくない。次の被災者にならないでほしい。自分がいつ被災者になるのか分からないのだから、災害に備えてほしい。」
一男さんの話を聞きながら自分の防災意識の低さを実感した。「自分は大丈夫。」 そう思っていた自分が恥ずかしくなった。

三人に同じ質問をした。「あなたにとって、『復興』とはどういうものですか。」

あかりさんは、「七夕祭りなどの伝統的なものが震災の影響でできなかった。そういうものが、努力して(開催)できるようになることで、自分たちが成長すること。」と、考えながら答えてくれた。
あかりさんの友達は、「町に笑顔が戻ること。」とすぐに答えてくれた。
一男さんは「昨日と同じ今日が来ること。」

中高生が考える「復興」は想像以上にはっきりしたものだった。

その後、民泊先の家に向かった。
おいしい海の幸をたくさん食べて、親戚の家を訪ねた時のようにゆっくりと過ごすことができた。
民泊先の村上さんに同じ質問をすると、「地区の中で津波をかぶったか、かぶってないかでもともと町にあった地域のコミュニティがなくなってしまった。」
「だから、もしかしたら復興はないのかもしれない。」
と、答えてくれた。

復興はない。コミュニティがなくなってしまった。

自分の知らない「復興」だった。コミュニティの問題は仮設住宅などだけではない。僕の中で新しい課題になった。

次の日の朝食後、村上さんに誘われ近くの海を見に行った。海を見つめる村上さんは、少しだけ悲しそうに見えた。
集合場所へ向かう途中、軽トラの助手席に僕を載せて遠回りをしてくれた。広田地区をまわり、離れるのが寂しいと思ってくれているのかなと感じた。

「ほんでまんず会」というお別れ会で、代表の挨拶をした。
泣きそうになるのをこらえながら、なんとかやり遂げたのを覚えている。

雨がひどくなる中、佐々木学さんの牡蠣養殖場へ。船に乗り、大粒の牡蠣を見せてくれた。牡蠣の話をしている佐々木さんは、まるでわが子を紹介するかのようだった。牡蠣をどう有名にしていくか。いろいろなことにチャレンジしたという。
佐々木さんの「復興」は、「水揚げ量が元に戻ったら復興、というわけではない。地域らしい町にしていくこと。」と答えてくれた。
「子どもたちのため、未来のために頑張っている。」と語る佐々木さんは、とても輝いて見えた。

工事車両が行きかう道路。手つかずの土地が目立つ。語り部の釘子明さんに案内された陸前高田の市街地を望むその場所の景色は、次に訪れる時には大きく変わっているだろう。
釘子さんにとっての「復興」は「皆が普通の暮らしができること。」
釘子さんの話からは、この現状を知ってほしいという思いがひしひしと伝わってきた。

その夜参加した、陸前高田の「うごく七夕まつり」。自分も川原祭組の一員として参加させていただいた。最初は自分ができるだろうかという不安があったが、川原祭組の人は「がんばろうな!」と声をかけてくださり、一気に不安が消えた。
夜の部は電飾で飾られた色とりどりの山車が町を練り歩く。山車の舵棒は津波に耐えたものだという。津波に耐えた舵棒が、新しい陸前高田の市内を進む。自分はそれを押している。そう考えるととても感慨深かった。

祭りの最後に、山車を180度回転させた時の達成感は忘れられない。全員でハイタッチをして喜んだ。本当に祭組の一員になれた気がした。今でも祭りのお囃子が頭から離れないほどだ。
スタツアメンバーと出店に行ったり、他の祭組の山車を撮ったりと、祭りを心から楽しむことができた。祭りは子どもも、大人も、みんな笑顔であふれていた。うごく七夕まつりは陸前高田の希望の一つだ。

最終日。これまでの天気が嘘のように青空が広がった。ツアーが始まった時よりも心がすっきりしていた。

僕は東北に住んでいるわけでも、津波を自分の目で見たわけでも、誰かを亡くしたわけでもない。だけど、自分の中で東日本大震災は遠く離れたところで起きた出来事、ではなくなった。僕がお世話になった方に起こった大きな出来事。

このツアーを通じ、多くの方の「復興」を聞いていくうちに、まだまだ自分の知らない「復興」があることを実感した。それぞれ震災に対する考え方も、想いも違う。ただ、確実に前を向いて進んでいることは同じだった。
「復興とは何か。」
 僕の考える復興は、道や建物が元に戻るだけでなく、一人一人が「心の復興」を迎えること。
震災から七年という長い時間がたった今でも、「復興」はまだまだ終わらないと思う。もしかしたらないのかもしれない。

「自分たちができることは何だろう。」
今回学んだことを「伝える」ことで何かが変わるかもしれない。そう思った。写真で伝える。文章で伝える。言葉で伝える。東北の今を、想いを伝えていこうと決めた。
また、このツアーで東北のことを語り合える仲間たちに出会えたこともうれしかった。自分とは違った視点を教えてくれた。

これからもずっと、東北の復興を見つめていこうと思う。

「復興」という二文字の意味と向き合い続けた四日間だった。

高校生東北レポート2018

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