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「自分の目で見てきたもの、聞いてきたものを伝えたい」高校生・東北スタディツアー参加報告 吉田雛

2018/11/01

中学2年生の冬、私はテレビの報道を通して東日本大震災により、避難してきた被災者がいじめを受けていることを知った。その内容は、福島から横浜に避難をした中学1年生がいじめに遭っていること、新潟でも小学4年生が生徒だけでなく、教師まで一緒になりいじめを受けているというものだった。

この報道に対して、私はとてつもない憤りを感じた。横浜でのいじめ問題から、1か月も経たずに新潟で同じことが起きてしまったことに対して、何より教師が避難している生徒に向かってひどいいじめをしたことに、私は我慢できなくなり衝動のまま新潟の教育委員会に電話をした。私の質問や疑問に対して、何の答えも得られなかった。「それは、私たちには関係ないことですので」と言われ、電話を切られてしまった。私は、悔しさと共に腹立たしさを残したままだった。

私が通っていた中学校では、中学3年生の終わりに卒業研究を発表する。1年前からテーマを決め、研究を進めていく。私は、その卒業研究のテーマを『東日本大震災での被災者いじめについて』と決め、当事者のお話を聞いたりNPO団体の方にコンタクトを取り冊子をいただいたり、放射能について学ぶため、広島の原爆ドームを訪れたりと私なりに取材と研究をし、発表をした。卒業研究制作途中、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが学校に講演に来てくださった。貴重なお話を聞くことができた。「私も安田さんのように実際にその場所を訪れ、自分の目で確かめたい」と思い、このツアーに申し込みをした。選ばれた参加者10人の中で高校1年生は私だけだった。

上野さん

4日間、多くの方々から貴重なお話を聞くことができた。その中でも、私にとって上野さんは特別な方だった。上野さんは東日本大震災によって、ご自身の母親と娘さんを亡くしており、父親と息子さんは未だ行方不明、亡くなった娘さんの永史可ちゃんは、私と同い年だと出発前に、安田さんから聞いていた。私はどんな顔でどんな質問をすればいいのか解らなかった。

お会いした上野さんは、とても穏やかで優しそうな方だった。上野さんも事前に娘さんと同じ年の私が来ることを聞かされていたようで、「君が永史可と同い年の子か」と上野さんは私に向かって声を掛けてくださった。私はどんな反応をしたらいいのか戸惑った。「こんなに年月が経ったんだな」と私を見つめながら上野さんはしみじみと呟かれた。

地震が起きたのは、私が小学2年生の終わりだった。私はまだ幼く、震災そのものを理解できなかった。それから7年間も私はただ、当たり前のように毎日を過ごしてきた。そんな自分の今までが上野さんを前にして恥ずかしく思えた。

「被災者いじめについてどう思いますか?」 私が口にできたのは、この1言だけだった。もっと聞きたいことがあったが、その時の私にはそれしか言うことができなかった。「福島の中でも、福島第一原発から20km圏内か圏外かで被災者同士でも差別が起きてしまっているのが現状だから、いじめの問題に対してどうこう言えることじゃない」 そう言われた時、驚きを隠すことができなかった。1年間いじめについて調べてきたのにもかかわらず、自分はこの事実を知らなかった。

いじめは被災者とそうでない人との間だけで起こるものではなく、同じ苦しみを味わった人たちの中でさえ生じてしまうものだった。人は同じ境遇、同じ悔しさや辛さを共有している間は、団結し合い、お互いを励まし合えるのかもしれない。補償、補助金など復興という段階を重ねるごとにすれ違いが起こり、疑心暗鬼が生まれ、差別化を起こしてしまうのかもしれないと知った。本当の復興とは何なのか、その境界線は本当に正しいのか考えさせられた。

大川小学校

石巻市釜谷地区の北上川河口から約4kmの川沿いに位置する大川小学校は、東日本大震災で児童108人のうち無事が確認されたのは34人。学校にいた教職員11人のうち助かったのは1人だけだった。避難所に指定されていた学校のはずなのに、津波は大川小学校の屋根をはるかに越え、8mもの高さで押し寄せた。地震から津波到着まで約50分あったにもかかわらず、避難が遅れ多くの未来ある子供たちの命が奪われた場所。後に教師の対応の悪さ、市の危機管理のなさなどから「人災」として問題になった場所。

この場所に立って初めて解ることがある。北上川側は堤防があり、川は見えない。校舎の横には山がある。そのまま登ることはできない。階段もない。移動し横の細い道を登るしかない。避難所に指定され安全な場所とは、つまり隔離され孤立した場所とも思えた。

7年前のその時、私も小学2年生だった。同じように学校に居て校庭に避難させられ、揺れて溢れ出すプールの水を眺めていた。この大川小学校でもそうだったに違いない。私が感じたとは比べ物にならない程の大きな揺れ、余震がどれほどの恐怖だったか。慌てて避難した子供たちは上着を着る暇もなかったかもしれない。どれほど、寒かったか。当時の自分を思い出し重ね合わせる。

この場所でその時を想像した。教師たちは子供たちを校庭に避難させ、安否確認。迎えにこれた保護者には身元確認の上、引き渡しをしながら残った多くの子供たちの対応を。校舎の屋上に避難、山に避難、余震の中ではどれも危険がつきまとう。二次災害の危険性が頭をよぎる。避難場所に指定されているこの学校が一番安全なのではとの意見も出たに違いない。真っ黒な渦を巻いた津波が河口から4kmもさかのぼって8mの高さで押し寄せるとは想像できなかったに違いない。教師の判断の遅れがなければ子供たちは50分の間に全員避難できたはず。「助かった命」と遺族の訴え、子供を失ったやり場のない憤りと無念さを思うと共に、たとえ教師でも平常心で判断できる状態だったのかとも思う。

真実は人それぞれ違う。受け止め方にも違いがある。あるのは事実のみなんだ。この場所での惨劇はこの場所に立って初めて事実なんだと実感できるものだ。私がこの大川小学校を訪れた時、あいにくの雨だった。崩れ落ちた校舎や渡り廊下のコンクリートが雨に濡れ、一層静けさと沈黙した時を感じさせた。

大川小学校の教師だった父を持つ佐々木さんは、お父さんが亡くなったにもかかわらず、語り部やボランティアの活動をしていた。しかし、震災から5年が経って心の病を発症し活動を止めてしまったと知った。彼は父親と同じ教師を目指していたが大学も辞めてしまった。彼も被害者であり、被災者だ。自分の尊敬すべき目標であった父親が亡くなった上に、更に教師としての対応が取り沙汰されていく中で、彼の悲しみや苦しみは増していくばかりだったのかもしれない。被災地として目に見えるものは復興への道を歩んでるのかもしれない。しかし、年月が経つほど人の心に残る傷は癒えるどころか深くなるものだと知った。被災者の心の傷は何年経っても消えることはないのかもしれない。私は大川小学校に立ち、息苦しいほどの寂しさでいっぱいになった。

村上さん

今回、民泊をさせていただいた村上さん家族は、とても優しい笑顔が印象的な方々です。本当のおじいちゃんおばあちゃんのようだった。疲れているにもかかわらず、「聞きたいことがあるなら聞いてね」と言ってくださり、震災当時のお話を夜遅くまでしてくださった。

お話の中で印象に残ったことは、村上さん家族の準備態勢だ。村上さんの住んでいる広田地区では、震災時に水道が止まったという。更に2か月もの間、電気は通らなかったのに、特に困ったことはなかったと村上さんは語った。その言葉が私には信じられない程の驚きだった。家の後ろの山から木を切り、燃やしてかまでお風呂を焚いたりストーブで料理をしたり。そして、家を作った時に井戸を作り2~3年に1度、検査をして常に飲めるようにしていた。更に驚かされたのは、冷蔵庫が4つあるということだ。いつも何かしら食べ物を常備しているという。

村上さん家族は「自分たちより、苦しい思いをしている人はたくさん居る」 そう考え、震災後40日程で国から物資を貰うことを止めた。また、近所の人たちにお米を配ったりお風呂に入れてあげたりしたという。村上さんご家族は外見通り、心の温かな方々だ。それはお話だけでなく、私たちへの食事の配慮などさりげない気遣いからも感じられた。

村上さんのような方々は他にもきっと居るのかもしれない。しかし、私は知らなかった。お互いを助け合う思いやりはこの土地柄もあるのかもしれない。このような方々のことは報道されることはない、だから遠く離れた者は知ることはない。物資が届いたかどうか、どれだけ復興がされたか、そんな情報しか流されない。報道には作り手が居る。その制作者の意向に沿って作られ流されている。見る側は、情報に左右されすぎず、一つの意見として受け止め読み砕く力が必要なんだ。ネット社会でいくらでも即座に情報は手に入る。しかし、本当に知りたいこと、事実は手に入らないのかもしれない。この村上さんたちのような方をこの場所に来なければ知ることはできなかった。

「自分が1番と考えている人が多いけど、そうじゃダメなんだ」 そんな村上さんは、何度もおっしゃっていた。この言葉は常に心構えし、実際に行動されている村上さんの言葉だからこそ心に響いた。人は一人では生きてはいけないということなんだとも思えた。

まとめ

私が見た東北の海は、とても穏やかで綺麗だった。たくさんの恵みを与えてくれるこの海が一瞬で、何万人もの命を奪ったとは想像もできなかった。それだけに天災の恐ろしさを感じた。「自分の住んでいる所がいつ、被災地と呼ばれるようになるかわからない」 私は改めてそう感じた。いつでも、どこでも有りうることなんだ、他人事ではないことなんだと東北を訪れて自分に置き換えて考えることができた。

このツアーの最中、私が放射能を勉強するため訪れた広島の原爆の日を迎えた。広島原爆ドームを思い出し、東北から黙とうをした。このツアー中に聞いた、「もう7年ではない、まだ7年なんだ。」 私は、その言葉が頭から離れない。今年、戦後73年が経つ。いつの日か東日本大震災からも同じように73年の月日が経つだろう。いずれ風化していってしまうのかもしれない、仕方ないことなのかもしれない。それでも残すべきものがあるはずなんだと強く思う。私たちにとって、報道されていることは画面の中の話であり、実感を持つことなんてできない。画面越しではわからない被災地の爪痕、空気や食べ物、人々の温かさはこの場所に来なければ触れることができない。

このスタディツアーから帰宅した2日後、私は母校の中学校を訪れた。当時の先生方が私の土産話を待っててくださっていた。ツアー中の話と私が撮影してきた写真を見て貰った。私の経験が役に立つことがあるならば、なんでも協力すると伝えた。卒業研究の際にご協力してくださったNPOの方にも、このツアーに参加できたことをお知らせした。とても喜んでくださった。今後、機会があればお会いしてお話をするつもりだ。

私はこのツアーに参加した意味を、終わってみて明確に知ることができた。私は自分の目で見てきたもの、聞いてきたものを事実として伝えたい。それはツアーに選ばれた役割でもある。私のできる範囲で、私の身近な後輩たちにも伝えたい。少しでも多くの人に、長く伝えていきたい。家族にも、友達にも、人から人へ繋がることを祈って、私も今を生きるものとして、今の東北を少しは知る一人の「語り部」として伝えていく。

そして、受け身でなく積極的に疑問を持ち行動すれば、その先に更なる出会いも素晴らしい経験も待っていることを私はこのスタディツアーで学んだ。どうせ選ばれない、無理と思いながらも、まずは申し込みしなければチャンスは来ない! そう思い、締め切りギリギリでこのスタディツアーに申し込みをした。諦めていたら、私は選ばれることはなかった。少しの勇気と少しの探求心で、何倍もの一生に残るものを得ることができた。訪れた東北の現在のありのままの姿、そこに住む方たちの笑顔、その中にある悲しみと毅然とした強い思い、美しい景色。それに、主催者であるフォトジャーナリストの安田さんを始め、同行してくださったスタッフの皆さん。このツアーの第一回目の参加者がスタッフとして同行してくださってもいた。そして、一緒に参加した9人の高校生。年齢も住む所も違う人たちとの出会い。たった4日間だったが、一生に残る出会い。

たくさんの話をし、同じ時間を同じ場所で共有し刺激も受けた。遠く離れていても、また会いたい。そんな出会いはなかなかできない。自ら行動することには、その先にこんなにも素晴らしいものが待っている。だから、私はこれからも少しの勇気と探求心を常に持ち、出会いを大切に生きていきたい。たとえ一期一会でも、出会えて良かった。一生の出会いと思ってもらえるような人に私がなりたい。

高校生東北レポート2018

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