遠い国の虐殺 南スーダン共和国

2014/03/01佐藤慧

マータは、突然荒々しい銃声が空に響くのを耳にした。何が起こったのかわからぬまま銃声の方向に目をやると、武装した若者が怒声を上げて駆けてきた。その手に持った銃からは、耳をつんざく音と共に、数え切れないほどの弾が放たれた。目の前で次々と人が殺されていく。幼い子供の頭がはじけ飛び、血飛沫が散った。下半身を撃たれ、身動きのとれなくなった人も、容赦なく頭を貫かれた。恐怖で叫び声を上げるマータを、武装した男たちは強引に押さえ込んだ。若く、容姿の端麗なマータは、殺されることなく「戦利品」として捕らえられたのだ。マータは力の限り叫び、もがいたが、助けに現れる者はいなかった。

灼熱の太陽がじりじりと頭上に照りつける。時折吹く風は涼しさなど微塵もなく、まるでドライヤーに吹かれているような熱気を頬に叩きつけてくる。舞い上がった砂が口の奥で苦い音を立て、長時間外に立っていると目眩がしてくる程だった。

ここは南スーダン共和国の首都、ジュバ。昨年独立を果たしたばかりの新生国家の首都は、初々しさなど微塵もなく、どこか疲れた空気が漂っていた。世界で最も新しいこの国のことを、日本で耳にする機会は少ない。実は今年初頭から、日本の自衛隊が国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)に派遣され、インフラ整備の任務にあたっているのだが、テレビや新聞などでは、少し報道されただけで影を潜めてしまった。興味を持つには余りにも遠く、想像の及ばない世界なのだろうか。

南スーダンの首都、ジュバ。電気や水も安定しているとは言い難い。

南スーダン独立の背景には、長期間に及ぶ紛争の歴史がある。南スーダンはもともと、スーダン共和国の南に位置する10の州だった。そこに住む人々は、北部の発展とは裏腹に、常に劣悪な環境に置かれていた。南部で採掘された石油は、パイプラインを北上し紅海から輸出される。その利益は南部に還元されることはなく、北部と南部の格差は開いていく一方だった。

南北分断の歴史は、スーダン共和国独立前まで遡る。1899年から、イギリスとエジプトの共同統治下に置かれていたスーダンだったが、1924年以降、イギリスはスーダン南部を「近代化(西洋化)するには未熟過ぎる」と判断し、北部とは別に統治することにした。それは統治という名の隔離政策で、当時のスーダン南部には、僅かなアラブ系商人と、キリスト教宣教師たちのみが行き来を許されていたという。

その後、1956年にスーダンが宗主国から独立を果たした後も、南部は中央政府から軽視され続け、病院や学校といった基礎的なインフラ整備も十分には行われなかった。その背景には、北部のアラブ系住民と、南部の非アラブ系住民との間の軋轢もあったという。独立前後から続いた南北の内戦は、1972年のアディスアベバ合意による和平交渉まで続いた。

しかし、やっと訪れたその平和も長くは続かず、1983年には、ジョン・ガラン率いる反政府組織、SPLA(スーダン人民解放軍)が組織され、その後、実に21年間に及ぶ泥沼の争い、「第二次スーダン内戦」が始まったのだ。2004年に和平が成立すると、南部は独立を問う住民投票を実施、2011年7月9日に、晴れて独立国家として南スーダン共和国が生まれた。

首都郊外をバイクで走っていると、異臭が鼻についた。何かが焼けている臭いだ。もう少し走ると、その臭いの原因がわかった。ゴミの野焼きだ。辺り一面、大量のゴミで覆われている。あちらこちらに火が放たれ、朦々と煙が漂っている。空にはゴミを目当てに飛んできた大きな鳥が旋回している。酷い異臭と煙に、目と鼻が麻痺しそうになる。

そんな中、必死に目を凝らすと、煙の中に人影が見えた。どこまで続くともわからないゴミの平野で、棒を使いゴミをかき分けている男性がいた。この膨大なゴミの中から、何か売り物になるものはないかと必死に探しているのだ。親子でゴミを漁っている様子も珍しくなかった。

南スーダンは、まだまだ国として機能しているとは言い難い。道路や水道、電気などのインフラは乏しく、ゴミ処理施設も欠乏している。人口約40万(推定)のジュバから運ばれる大量のゴミは、こうして毎日郊外の原野に撒かれては火を放たれるのだ。どこまでも地平線の続く原野を走っていると、その広大な土地に比べたら人間のゴミの量など大したことはないのでは、と錯覚しそうになる。しかし、首都が呼吸する度に吐き出す廃棄物は、際限なくゴミの平野を作り続けていた。

地平線まで続くゴミの平野で、黙々とゴミを漁る人々がいた。

「南スーダン独立万歳!」という歓喜の声が、ナイル川の桟橋から聴こえてきた。沢山の人と荷を積んだ船が、北の首都ハルツームから3週間かけて到着したところだった。北部に住んでいた南部出身の人々が、独立を機に南部へ帰還したのだ。

半世紀にも及ぶ、気の遠くなるような争いの果てに勝ち得たこの独立は、南部の人々に確かに希望をもたらした。川岸には多くの人々が集まり、久々に再会する帰還者と抱き合い、その無事に安堵していた。しかし、新国家の土を踏んだこの瞬間からが、次の長い旅の始まりである。意気揚々と祖国に帰還したはいいが、南スーダンにはまだ十分なインフラも、教育も、職もない。

川岸には、行く宛もなく、持ち帰った荷物に囲まれて生活している人々の姿もあった。本当に国家が独立し、その足で前に進めるようになるまでは、まだまだ多くの時間が必要なのだということを、その光景は示していた。

溢れそうなほど人と荷を積んだ船が、ナイル川のほとりに到着した。
行く宛もなく、北から持ち帰った家財道具に囲まれ川岸で生活をする人々もいる。

今回南スーダンを訪れたのには理由がある。世界で一番新しい国家を訪れてみたかったということもあるが、何よりもその地で起きている虐殺のニュースが気になったのだ。南スーダン北東部のジョングレイ州で、昨年末から今年の初頭にかけ、民族衝突が激化し、3000人以上もの人が惨殺されたというのだ。新国家独立という喜ばしいニュースとは真逆の、陰鬱なニュースだった。その取材の過程で出逢ったのが、マータだった。

マータ・サイモン(Matha・Simon)は18歳の美しい女性だった。力強い瞳でじっと僕の目を見つめながら、その脳裏に焼き付いた惨状を語ってくれた。

マータが住んでいた村は、ジョングレイ州のレクウォンゴルという地域だった。その日も、代わり映えのない普通の朝が訪れるはずだった。のんびりとした朝の静寂を破り、突如として襲ってきた多数の武装した男は、竦み、身動きの取れないマータの前で次々と人を殺し、彼女を取り押さえた。目前に散らばる遺体の中には、赤黒い血に染まった大地に横たわる、頭の砕かれた幼い妹の姿もあった。

武装集団はロウ・ヌエル(Lou Nuel)族の若者だった。マータの民族、ムルレ(Murle)族とロウ・ヌエル族は長年に渡り衝突を繰り返してきた。お互い牛を最重要の家畜として生きる牧畜民族だった。何度もお互いの家畜を奪っては奪われ、数多くの犠牲を出しながらこの地に生きてきた。今年初頭に起きた大規模な衝突では、群政委員によると3141人の遺体が確認され、女性、子供2182人、男性959人もの住民が犠牲となった。

捕らえられ、もうダメかと思ったマータだったが、男たちが牛を扇動し追い立てている間に隙を見つけ、なんとか逃走。最寄りの空港まで走りきり、国連に保護された。

当時の様子を淡々と、時に感情を押し殺すようにして語るマータ。

インタビューを続けながら、言いようもない不快感が胸に広がっていく。これらの衝突は、表面的には家畜を巡る民族間の争いに見えるが、問題の根は深く、その背景には多民族国家によってなる南スーダンの主権争い、地下資源の利権争いが横たわっている。そういった争いは、衝突を通じて大量の小火器類をこの地にばら撒き、安定した社会の成長を長年に渡って阻んでいる。いわば民族問題は火種に過ぎず、隙あらばその火種を使って利益を得ようとする集団が跋扈しているのだ。犠牲になるのはいつも何も知らないマータのような人々だ。

殺し、殺される現地の人々。日本で暮らし、世界の資源を喰らい尽くしている自分。マータの家族の殺された背景には、南スーダンの地下資源を必要としている僕たち先進国の人間の生活があるのだということを、僕は彼女に告げられなかった。

分離独立前のスーダンは、アフリカ第6位の原油産出国で、約50万バレル/日を生産しており、それはスーダンの輸出収入の93%を占めていた。その後、南スーダンが北から独立した形となったが、油田の75%は南に属しており、それが北との確執を生んでいる。[*1]

日本が輸入しているのは、火力発電の燃料に使用する重質原油だが、猛暑により使用電力がピークに達した2007年には、スーダンからの発電原油は全体の2割を占めていた。日本は世界各地から原油を輸入しているが、インドネシアの原油生産が減りつつある今、スーダン産原油の存在価値は大きくなっている。また、イランへの経済制裁[*2]の影響もあり、南スーダンに代替する原油輸入先を見つけることは難しいのが現状だ。日本は南北スーダンに対し、2010年までに有償、無償資金協力、技術協力を合わせて1492億円の援助を行なっているが、それは南北スーダンの原油無くしてはエネルギー供給に不安を抱える日本の「外交」なのだ。

現在、南スーダンに眠る原油を巡り、北との対立は悪化、国境沿いの油田近くでは空爆も行われている。南北に亀裂を与え、且つ同国内でも民族対立を煽る「Black Gold(黒い金)」。本来ならば地球からの恵みであるはずの資源は、人間の欲望を媒体とし、終わりなき争いの火を灯す。

目の前で惨状を語るマータに手を差し伸べるわけでもなく、カメラとペンを持ってこの地を訪れただけの僕は一体何者なのだろう。彼女の家族を殺した人々と僕は、一体どれだけ違うというのだろうか。なぜ、人は殺しあうのか。殺しあわなければいけないのか。答えを持たない僕には、その疑問を投げかけることしか出来ない。日本からは、遠く、想像も及ばない南スーダンの出来事が、少しでも近く、あなたの世界と触れることを心から願って。

南スーダンに帰還してきた子どもたちも多い。この国の未来を担う命。

(2012年5月 LIVEonWIRE_JOURNAL掲載)

佐藤慧(Kei SATO)

1982年岩手県生まれ。国際開発の分野に関わり、アメリカ、アフリカ、中米などで経験を積む。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、命の尊厳や愛を伝える手段としてのジャーナリズムや芸術活動に希望を託し活動を開始。言葉を探しつつ、風に吹かれ、根無し草のように自由に世界を漂いながら国家、人種、宗教といったあらゆる境界線を超えて、人と人との心の繋がりを探求し、それを伝えていく。

後記

僕が取材を終えて帰国した3月以降、南スーダン北部の国境付近では情勢が悪化、北による空爆が続いています。10万人を越える人々が避難生活を余儀なくされ、食糧危機も懸念されている状況です。今この瞬間にも、そのようなことが起こっているということを少しでも感じて頂けたら幸いです。直接働きかけることが出来ずとも、ひとりひとりがこの世界の中で生きていくということの意味を自問してくれたら、それが未来への希望に繋がると信じています。

[*1] 原油を巡る南北対立

内陸に位置する南スーダンは、その原油の輸出のためには北のパイプライン(紅海へ続く)に頼らざるを得ない。そのパイプラインの使用料(実質的には輸出のための関税)に関して南北間で合意に対する認識が食い違っている。北は36ドル/バレル(1バレルは約160L弱)を主張しているのに対し、南は0.7ドル/バレルを主張している。北は南が未払いの関税(約11億ドル)を支払うまで原油出荷を差し押さえる措置を敢行。南は、関税支払いが終了しているにも関わらず、北が出荷を妨害し、且つパイプラインから原油の抜き取りを行なっていると主張している。現在南スーダンは原油の生産、出荷を停止しており、中国や日本など、南スーダンの原油に頼る国々に大きな影響を与えている。また、南の分離独立の際に、両国の国境線に関して合意に達していなかった地域、アビエイ地区(ヘグリグ油田を含む)の帰属を巡る争いも激化している。2012年4月10日、南スーダン軍はヘグリグ油田に軍隊を派遣し制圧、その2日後にはスーダン空軍が南スーダン、ユニティ州の州都を爆撃している。4月18日に行われたスーダンのバシル大統領の演説では、南スーダンの首都、ジュバを目標に全面戦争に突入する旨を表明した。北の反撃に合い、南スーダン軍はヘグリグ油田から撤退したものの、衝突は収束に向かわず、なお激しい抗争に向けて悪化の一途を辿っている。

[*2] イランへの経済制裁

核開発を進めるイランへの経済制裁として、オバマ米大統領は3月30日、イラン中央銀行と取引する各国の金融機関に対し、米銀との取引を制限するなどの制裁を行うことを承認した。日本やEUなど、イラン産原油の輸入削減に務める国(経済制裁へ協力の姿勢を示す国々)に対しての措置は180日間適用しない。今後、制裁の特例措置を受け続けるにはイラン産原油(日本の輸入原油のうち、2011年末の時点で9%を占めていた)の輸入を更に制限しなければならなくなる。また、日本の損害保険会社は、石油タンカー向けの保険をEU諸国の保険に「再保険」に出すことによりリスクを押さえているが、今回の経済措置に伴い、EUは「イラン原油に対するEUでの再保険を禁止する」制裁を発動するとされている。その制裁が施行されると、石油タンカーのリスクに対して保険が不十分となり、ただでさえ減らさざるを得ないイラン産原油を輸入するための配船すら困難になるとみられている。それを受け日本政府は、同保険に対して、賠償支払いの大半を政府が肩代わりする制度の検討に入った。なお、インドと中国は米国の経済措置に従う必要は無いと判断し、イランからの原油輸入を継続している。

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